(adsbygoogle=window.adsbygoogle||[]).push({}); 「ヤクルトスワローズねぇ・・・野村克也が監督をやっていた時代以外は相変わらずの低空飛行だったんでしょ?ヤクルトを飲むだけでは成績アップは難しいか・・・」, ヤクルトスワローズの選手が、試合の度にヤクルトを飲んでいたかは不明ですが、とりあえず低空飛行が続いていた歴史であることは否めませんね・・・, と言っても、7回のリーグ優勝、5回の日本一を決めているヤクルトスワローズは、セ・リーグの歴史の中では成績が良いチームだと私は思っています!, それにヤクルトスワローズのマスコット、つば九郎はいい感じのキャラですから、それなりに潤っている球団ではないでしょうか?, 「いや、2017年現在のヤクルトスワローズを観たら、潤っているなんて口が滑っても言えないね・・・正直、つば九郎に投手でもやってもらいたい状態だよ。」, でも、ヤクルトスワローズは2015年に優勝したばかりですから、他のチームからのマークが強くなった=「強いチーム」と認定されていると思っているので、そう落ち込むことはないんですよ!, それに、ヤクルトスワローズの歴史を見直せば「ああ、ちゃんと強かった時期もあったんだなー」と納得してくれるはずなので、強かった頃のエピソードを思い出してみましょう!, つば九郎も納得してくれるヤクルトスワローズのエピソードを揃えましたので、乞うご期待ください!!, 野村克也がヤクルトスワローズの監督をやっていなければ、ずっと沈んだままだったでしょう・・・, 野村克也はヤクルトスワローズの監督として、1990年から1998年まで指揮を執っていましたが、9年間の成績は「リーグ優勝4回、日本一3回」という「ヤクルト監督歴代史上最高」の成績を残しました!, また、ID野球と言われる「戦略」を選手に叩き込み、ヤクルトスワローズの多くの選手が一流選手に育っていきました!, この当時のヤクルトスワローズは、「打倒巨人」という野村克也のパフォーマンスも含めて、凄く熱かった時代だと私は思っています!, よくフジテレビで「巨人対ヤクルト戦」を放送していましたから、ドラゴンボールZが何回も中止になってしまったことを凄く覚えていますね(泣), ドラゴンボールZよりも熱かったヤクルトスワローズを支えた野村克也の功績は、これからもヤクルトの歴史の中で語り継がれていく出来事だと思っています!, 2009年6月14日の交流戦、ヤクルト対オリックスの試合で5回表に、「青木宣親」がヒットを放ち、「田中浩康」まで「9者連続ヒット」を達成し、一挙6点を獲得しました。, 打者一巡となり再び青木宣親の打席になりますが、ここは四球となり、ヤクルトは満塁となります。, そして「ガイエル」が満塁ホームランを放ち10安打目となり「飯原誉士」がツーベースを放ち11安打目となります!, 結局「宮本慎也」で連続安打はストップしましたが「11打数連続安打」は、メジャーでも達成されていない「価値のある記録」となっていたのです!, ヤクルト球団関係者は記録申請を行い、2009年7月13日に「ギネス記録」として認定されました!!, いやー凄いですね、ヤクルトスワローズがこんな大記録を達成していたことに驚きを隠せませんでした。, なんかありそうでなかった記録だったのかなーと思いますが、連続安打で打順を繋ぐのは至難の業ですからね・・・と野球経験者の私は語ります(汗), ヤクルトスワローズはこれまでに7回の「リーグ優勝」を達成していますが、そのほとんどで「不幸」な出来事が起きていたのです・・・, 1978年:円高による不況。 「11打数連続安打」は、メジャーでも達成されていない「価値のある記録」となっていたのです!. 東京ヤクルトスワローズ(2006年 - 現在), 東京ヤクルトスワローズ(とうきょうヤクルトスワローズ、英語: Tokyo Yakult Swallows)は、日本のプロ野球球団。セントラル・リーグに所属する。, 東京都を保護地域とし、都内新宿区にある明治神宮野球場を専用球場(本拠地)としている。また、二軍(イースタン・リーグ所属)の本拠地は埼玉県戸田市にあるヤクルト戸田球場である。, シーズンオフでリーグ拡張方針に伴うプロ球団乱立のあおりを受け、各地の国鉄鉄道局(当時)の野球部から選手が引き抜かれる事態が発生した。国鉄は同年の大幅な合理化で労使関係が悪化していることもあり、国鉄職員の団結と意志発揚を目的にプロ球団設立を発案した。当時の国鉄総裁・加賀山之雄が大の野球好きだったことも、参入実現の一要因となった。, しかし、日本国有鉄道法に抵触するため国鉄が直接親会社になることはできず、国鉄の外郭団体である財団法人交通協力会(現:公益財団法人交通協力会・株式会社交通新聞社)が主体となり、1950年1月12日に財団法人鉄道弘済会、日本通運、日本交通公社(現:公益財団法人日本交通公社・株式会社JTB)などの企業により株式会社国鉄球団[2](資料によっては国鉄野球株式会社となっている物もあり)[3] を設立。球団名を国鉄スワローズ(こくてつスワローズ Kokutetsu Swallows )とし、(#球団名も参照のこと)セントラル・リーグに加盟。初代監督には西垣徳雄が就任。, 国鉄参入直前のセ・パはともに7球団であり、切りの良い8球団にしたいという思い、それも大企業である国鉄のプロ参入にセ・リーグ関係者は色めき立っていたが、パ・リーグとの勧誘合戦により参入が立ち消えになってしまうことを恐れ、セ・国鉄内部ともに極秘扱いで計画は進められた。参入の下準備も佳境に差し掛かる頃には巷間でも国鉄参入の噂が立っていたが、国鉄がプロ球団など作るはずがないとパ・リーグは高を括っており、参入は至って順調に成功した。本拠地は元逓信省総裁松前重義の尽力で、武蔵境の旧中島飛行機工場跡地に新しい野球場「武蔵野グリーンパーク野球場」が建設された(諸事情により1956年閉鎖。7試合しか行われなかった)。, しかし、参入が他新球団より遅れていたため選手確保がままならず、自前の鉄道局野球部を中心に他の社会人や大学などのアマチュア野球に残っている人材をかき集めたが、プロ経験者は第二次世界大戦前の一時期阪急に在籍した中村栄ただ1人という状態だった。アマチュア野球では強豪の鉄道局野球部もプロでは全く通用しなかったため、松竹ロビンスの二軍監督・森谷良平と、かつて奉天満鉄倶楽部に在籍していた宇佐美一夫を追加補強してクリーンアップに据えたものの、その後も貧打に悩まされた。, 3月10日の球団初公式戦の対大洋ホエールズ戦(下関)に2対1で敗れ、続く11日の対広島カープ戦に3対2で球団初勝利を挙げる。しかし序盤の3月21日から14連敗、4月26日から10連敗で最下位で、8月に享栄商の金田正一が高校を中退して入団し、10月1日にプロ初勝利を挙げるとこの年8勝を挙げ、チームは終盤13連敗の広島に代わって7位となった。この年チームは42勝94敗2分で首位松竹ロビンスから57.5ゲーム、最下位広島と1.5ゲーム差の8球団中7位に終わる。シーズン終了後、西日本パイレーツがセ・リーグを脱退したため、セ・リーグは7球団となる。, 開幕から4月にかけて12勝4敗で首位に立つが、5月に入り6連敗で2位に落ちると、6月には3勝10敗として、前半戦終了時には6位となっていた。8月に入り、金田正一がこの月6勝を挙げ、チームは11勝10敗で勝ち越し5位に浮上し、そのままシーズンを終える。金田は、22勝を挙げ、最多奪三振を獲得[注 1] するとともに、9月5日に球団初となるノーヒットノーランを達成[注 2]。土屋五郎が、球団初のタイトルとなる最多盗塁を獲得[4]。, この年よりフランチャイズ制が導入され、国鉄は読売ジャイアンツ、毎日オリオンズ、大映スターズ、東急フライヤーズと共に後楽園球場を本拠地とした。開幕から2勝2敗とした後は4連敗、4月に入り4連敗と6連敗、5月に10連敗と連敗を重ねたが、松竹と広島が低迷したことで5位でシーズンを終了。この年120試合制となり初の50勝到達となったが、このうち半分近い24勝は金田正一で二年連続奪三振王となった。佐藤孝夫が球団初の新人王を獲得。, 松竹と大洋が合併したことで、この年からセ・リーグは現在の6球団制に移行。45勝79敗1分に終わり、首位巨人から42ゲーム差、5位大洋松竹と4.5ゲーム差で球団初の最下位となる。西垣徳雄が監督を退任、後任は藤田宗一。, 読売ジャイアンツから移籍した宇野光雄の活躍で同年の対巨人戦8連勝。宇野と箱田弘志が球団初のベストナインを獲得する。首位中日から32ゲーム差、55勝73敗2分の5位に終わる。, 10月19日、金田正一がシーズン350奪三振を記録、NPB新記録[注 3] となると共に大リーグ・ボブ・フェラー348を抜く世界新記録[4]。町田行彦が本塁打王を獲得。57勝71敗2分で、首位巨人と34.5ゲーム、4位広島と1ゲーム差の5位に終わり、藤田が監督退任、後任は宇野光雄。, 対巨人戦で11勝(13敗)と互角の試合を見せる。大脇照夫が5月3日の対中日戦(中日)でノーヒットノーラン、宮地惟友が対広島(金沢兼六)で球団初、日本プロ野球3人目となる完全試合を達成している[4]。チームは首位巨人と21ゲーム差、61勝65敗で4位に終わる。オフ、南海ホークスから飯田徳治を金銭トレードで獲得。, 金田正一は7月15日の対中日戦(中日)で2000奪三振を記録。8月21日の対中日戦(中日)でプロ野球4人目の完全試合を達成し、この年は最多勝利と最優秀防御率を獲得、沢村賞と自身初のベストナインに選ばれている。佐藤孝夫が22本塁打で本塁打王となる。チームは58勝68敗4分、首位巨人から15.5ゲーム差の4位に終わる。, 開幕戦の対巨人戦(後楽園)、金田正一が巨人のルーキー長嶋茂雄を4打席連続三振に抑えるなど、4対1で勝利する。翌4月6日のダブルヘッダーでも4対2、4対3と勝利し、開幕3連勝とする[5]。5月24日の対阪神戦(甲子園)で飯田徳治がアキレス腱切断、日本プロ野球記録の連続試合出場記録が1246で止まる[4]。6月6日、金田が球団初の通算200勝を達成[注 4]。チームは2年連続の58勝68敗4分、首位巨人から17.5ゲーム差の4位に終わる。金田正一が投手部門三冠王(最多勝、防御率、奪三振)と沢村賞を獲得。, この年も開幕戦の対巨人戦(後楽園)で金田正一が巨人のルーキー王貞治を2三振に抑えている。チームは63勝65敗2分、首位巨人から15.5ゲーム差の4位に終わる。, 9月30日に金田正一が対中日戦(後楽園)で勝利して、10年連続20勝を達成するが[6]、チームは54勝72敗4分、首位大洋から17.5ゲーム差、7年ぶりの最下位となる。宇野は監督を辞任、後任は砂押邦信。, 6月6日、森滝義己がプロ野球史上5人目となる完全試合を達成。67勝60敗3分で3位とし、球団初、国鉄球団として最初で最後となったAクラス、シーズン通算勝ち越しを記録する。, 9月5日、金田正一がメジャーリーグ、ウォルター・ジョンソンの記録を抜く通算3509奪三振を達成。51勝79敗4分、首位阪神から24ゲーム差の最下位となる。セ・リーグは3割打者が1人という投高打低のシーズンだったが、その中でも国鉄のチーム打率は.201(313得点)だった。これは2リーグ制以降の最低の記録である。11月、東映と共に韓国に遠征し、親善試合を行う[6]。砂押は監督を退任、後任は浜崎真二。オフ、西鉄から豊田泰光を獲得。, 年々増大する経営費のために経営主体は交通協力会から鉄道弘済会へと変わっていたが、公共企業・国鉄の球団であるという体面もあり相当の緊縮財政だった。新人選手の契約金は高騰する一方で満足な補強もできず(当てになる戦力は金田だけだった)、同年に起こった三河島事故による批判は球団にも飛び火していた。この年の8月、球団譲渡を前提とした業務提携を産経新聞社、フジテレビジョン・ニッポン放送・文化放送と結び、フジサンケイグループとの関係が生じる。この時点で経営主体はフジサンケイグループに移る。, 5月8日の対大洋戦(後楽園)で金田正一が通算300勝を達成。チームは65勝73敗2分、首位巨人から18ゲーム差の4位。浜崎は監督を退任、後任は林義一。, 本拠地を後楽園球場から神宮球場へ移転する(移転の経緯については後述のフジサンケイグループ及び明治神宮野球場#ヤクルトの本拠地を参照)。7月30日、金田正一が入団2年目の1951年から14年連続となるシーズン20勝を達成[6]。61勝74敗5分、首位阪神と18.5ゲーム差の5位に終わる。同年オフ、林義一の監督更迭・留任を巡り産経新聞と国鉄は激しく対立。エースの金田が「林監督がそのまま続投した場合移籍するが、解任された場合は残留する」との声明を出したことから国鉄は頑として林の更迭を主張、一方の産経サイドは他社マスコミ(読売新聞、朝日新聞、毎日新聞)により「林監督更迭」のスクープを先取りされていたことがあり、議論は平行線を辿り最終的には経営主体の産経サイドが意見を押し切った。林は留任し、金田は10年選手の特権を行使して巨人に移籍した。金田を失ったことにより国鉄は経営意欲を完全に喪失し、フジサンケイグループへ経営権を全て譲渡して経営から撤退することとした。もとより国鉄球団は業務提携後フジサンケイグループの資金力に丸々依存しており、移譲は時間の問題と見られていたが、喧嘩別れで球団譲渡という結末となった。, 4月23日、国鉄は球団の経営権をサンケイ新聞とフジテレビに譲渡することを発表し、5月10日、サンケイスワローズ( Sankei Swallows )に改称。サンケイ初年度となったが、国鉄初年度以来の90敗以上となる、44勝91敗5分。首位巨人とは45.5ゲーム差となった。この年からドラフト会議が行われているが、1位河本和昭をはじめ11名中9名が入団拒否[注 5] している[注 6]。, 1月7日、少年野球ファン開拓のため[7] という理由に加え、フジテレビで鉄腕アトムが放送されていたことや手塚治虫が当時球団後援会副会長(会長は徳川夢声)だったという経緯もあって鉄腕アトムをペットマークに使い、チーム名をサンケイアトムズ( Sankei Atoms )に、運営会社名を株式会社サンケイアトムズに改称。同年ヤクルト本社が株式を取得して球団運営に参加。これに伴い球団旗も当時の産経新聞の社旗をアレンジしたものを使っていた。52勝78敗で大洋と並んで5位、首位の巨人とは37ゲーム差。, 58勝72敗5分で首位の巨人と26ゲーム差の5位。巨人に3勝23敗の惨敗。後楽園球場で13連敗。武上四郎が新人王を獲得。, 1月28日、神奈川県横須賀市に武山球場が完成、二軍本拠地となる。5月26日には対広島戦に勝利し、球団通算1000勝を達成。来日2年目のデーブ・ロバーツが40本塁打を打つなどして、ベストナインを獲得。投手では石戸四六がチームとしては金田正一以来となるシーズン20勝を挙げる。64勝66敗4分、首位の巨人とは13ゲーム差の4位。, 産経新聞は本体の業績不振のため株式の一部をヤクルト本社へ売却。球団経営に積極的だった産経新聞・フジテレビジョン社長の水野成夫が病に倒れ、後を継いだ鹿内信隆がフジサンケイグループの事業見直しを行った結果、不採算だったプロ野球球団経営からの撤退、資本関係のみの継続を決めたもの。当時、ヤクルト本社は水野とは旧知の間柄だった南喜一が代表者を務めていた。実質経営権はヤクルト本社が握ったが、表面上は共同経営とし球団名をアトムズ( Atoms )と、運営会社名を株式会社アトムズ球団とした。これは2リーグ分立以降でチーム名に企業名・地域名などの冠名がつかない唯一の例となった。この年はボブ・チャンスが24試合で12本塁打を記録し、58勝69敗3分で、首位の巨人と16.5ゲーム差の5位だった。, 1月7日にヤクルト本社が公式に単独で経営権を持ち、球団名をヤクルトアトムズ( Yakult Atoms )に、運営会社名を株式会社ヤクルトアトムズに改称となり、チームカラーもヤクルト本社の社色である赤・白・緑のものとなった(球団旗やユニフォームなどに使用)。この年は序盤から大きく出遅れ、8月には1936年の大東京軍と並ぶ16連敗を喫した[注 7]。この連敗期間中の8月20日に別所毅彦が監督を解任され[8]、2軍監督の小川善治がシーズン終了まで代理監督を務めた。結局、シーズン92敗を喫し[注 8]、33勝しかできず、勝率は3割を大きく下回る.264[注 9] で、首位の巨人に45.5ゲーム差を付けられ最下位に終わる。巨人戦、阪神戦ともに5勝21敗で後楽園球場では13戦全敗。2桁勝利投手ゼロは球団史上初。東条文博が28盗塁で盗塁王。, 三原脩が監督に就任。チームは52勝72敗6分けの勝率.419と前年より盛り返すものの2年連続最下位に終わる。松岡弘は14勝を挙げた。9月27日、二軍はイースタンリーグで初優勝している[8]。, 前年に三原とともに入団した中西太打撃コーチのマンツーマン指導を受けた2年目の若松勉が首位打者、ルーキーの安田猛も1972年・1973年と2年連続で防御率1位となって頭角を現す。彼らの活躍もあり、この年は最下位を脱出、60勝67敗3分けの勝率.472の4位に浮上。8月12日、二軍は2年連続イースタンリーグ優勝[8]。, 62勝65敗3分けの勝率.488にてチームは2年連続の4位に終わり三原は監督を辞任。11月26日、虫プロダクションの倒産に伴い、鉄腕アトムのキャラクター使用を中止。10月26日、球団名を株式会社「ヤクルト球団」、チーム名を「ヤクルトスワローズ( Yakult Swallows )」に変更[8]。キャラクターも、ツバメをモチーフにしたものに変更。, 打撃コーチの荒川博が監督に昇格、コーチで入団した広岡達朗・沼澤康一郎・小森光生と「早大カルテット」を形成した。松岡が17勝、浅野啓司も防御率2位と活躍し、チームは60勝63敗7分けの勝率.488にて13年ぶりのAクラスとなる3位。, 日本ハムとの交換トレードで大杉勝男を獲得したが結果は57勝64敗9分けの勝率.471の4位。シーズン終了後に武上四郎が引退。, 5月12日、荒川博監督が成績不振を理由にシーズン途中で休養し、ヘッドコーチの広岡達朗が5月13日から代行となり、6月17日に監督就任[8]。結局52勝68敗10分けの勝率.433の5位に終わり、国鉄時代の1962年からこの年まで15年連続シーズン負け越しを記録し、セ・リーグワースト記録となる[注 10]。なお、全球団に負け越したにもかかわらず最下位を免れたのは、日本プロ野球史上初めてのケースだった。, 大杉がこの年多くの記録を立て[注 11]、9月14日の大洋戦では1イニング5本塁打の日本タイ記録を達成した[8]。若松が2度目の首位打者、入団2年目のチャーリー・マニエルが42本塁打を放つ。62勝58敗10分けの勝率.517により、チームは球団創設以来初の2位に躍進。, 前年の2位躍進に気をよくしたフロントは選手に対し「ブラジルへの慰安旅行」を計画したが広岡監督はこれに反対し「旅行するぐらいなら温暖な海外でキャンプを」と希望。これを受けて2月、球団史上初めて日本国外キャンプとなるアメリカ・ユマキャンプを行う[9]。広岡の参謀として巨人時代の同僚だった森昌彦がヘッドコーチで入団、キャンプでテストを受けたデーブ・ヒルトンも加わり打線は厚みを増した[10]。初優勝を狙うチームは前半を首位で折り返すも、後半に入り失速、3連覇を狙う巨人に抜かれ、8月には一時4.5ゲーム差を付けられるが、8月26日からの対巨人3連戦を松岡の完封、安田の連日の好リリーフで2勝1分けと持ち直し、巨人に代わり首位に返り咲く。9月に初めてマジックが点灯すると、9月19日のダブルヘッダー第2試合、さらに杉浦亨が連日のサヨナラ打を放った20日・21日と3試合連続サヨナラ勝ちを収め、下位球団相手に取りこぼす巨人を尻目に一気に加速、10月4日の対中日戦(神宮)で創立29年目で初のリーグ優勝を決める。日本シリーズではそれまで3年連続日本一だった阪急ブレーブスを4勝3敗で下し初の日本一。この年は開幕から129試合目まですべて得点を挙げていたが、最終戦の広島戦で大野豊に完封負けを喫し、全試合得点とはならなかった。なお、広岡監督が正力松太郎賞に、若松がチーム初のセ・リーグ最優秀選手に選出された。, マニエルの近鉄への放出を軸としたオフの補強に失敗し、開幕8連敗と大きく出遅れる。5月に盛り返し、5月27日にはマニエルに代わる新外国人ジョン・スコットがサイクル本塁打を放つ活躍で勝率を5割まで戻すが、その後は再び最下位を独走。8月にヘッドコーチの森が解任され、これに激怒した広岡が途中休養(指揮権放棄)し辞任。打撃コーチの佐藤孝夫が代理監督を務めた。結局このシーズンは48勝69敗13分けで8年ぶりの最下位。日本一の翌年に最下位に転落するのは、1961年の大洋以来18年ぶり2度目の不名誉。, 武上四郎が球団初の生え抜きとして監督に就任。相性優先のローテーションで巨人・中日・阪神・大洋から15勝以上挙げるが、広島に大きく負け越し。結局この年優勝した広島に大差をつけられての68勝52敗10分けの勝率.567、2位に終わる。松岡が最優秀防御率のタイトルを獲得。, マニエルが近鉄から復帰し優勝への期待が高まるが、マニエルは年齢的な衰えで12本塁打に止まり、さらに若松、スコットが相次いで負傷し外野陣が崩壊、出場機会が大幅に増えた代走・守備固め専門の青木実が盗塁王を獲得したが、チームは56勝58敗16分け勝率.491の4位に終わる。シーズン終了後に安田が引退。, 優勝当時の主力である大杉、大矢明彦、松岡らの衰えと外国人選手ラリー・ハーローらの不振からシーズン序盤より最下位を独走。最終結果は45勝75敗10分け、勝率.375で首位の中日と23.5ゲーム離される。, ドラフトにて巨人との抽選の末入団交渉権を獲得した荒木大輔が入団し、近鉄とのトレードで井本隆を獲得する。しかし、チームは井本や松岡、ボビー・マルカーノらの不振もあり、53勝69敗8分けの勝率.434にて2年連続最下位に終わった。シーズン終了後に大杉が現役引退。, 4球団競合の末ドラフト1位で獲得したルーキーの高野光が開幕投手に大抜擢され話題となったが、開幕からチームは不振が続く。武上がシーズン途中で監督休養、中西太が代理監督に就任するが中西も途中休養。投手コーチだった土橋正幸がシーズン終了まで代理監督を務めた(その後土橋は、正式に監督に就任)。この年、チームは51勝71敗8分けの勝率.418の5位となり、辛くも最下位を免れる。, 明治大学の主砲広沢克己(後に広澤克実)を獲得。杉浦享が自己最多の34本塁打、八重樫幸雄も捕手として球団初の3割打者と活躍したがチームはシーズン早々から首位戦線から1チームだけ脱落し、神宮で阪神に優勝を決められ、結局46勝74敗10分け勝率.383の最下位。10月9日に若松が2000本安打を達成。シーズン終了後に優勝バッテリーの松岡と大矢明彦が共に引退。同年、日本プロ野球選手会は労働組合の資格を得たが、オーナーの松園尚巳は「(親会社の)ヤクルト本社をはじめ、グループ内で労組を結成している会社は無い」として、ヤクルト選手会を労組選手会から脱退させた。, マルカーノに代わり大洋を自由契約になったレオン・リーが入団するが、この年もシーズン早々から首位戦線を脱落。2年続けて神宮で優勝を決められ、49勝77敗4分けの勝率.389と2年連続の最下位となり土橋は辞任。, 関根潤三が監督に、元阪神監督の安藤統男がヘッドコーチに就任。シーズン途中に入団した現役大リーガーボブ・ホーナーが「ホーナー旋風」を起こし、9年ぶりに広島戦に勝ち越し、チームは58勝64敗8分け勝率.475にて4位に浮上。荒井幸雄が新人王を獲得。この年のドラフト会議で、長嶋一茂との交渉権を大洋と抽選の末に獲得。, シーズン5位に終わるが、抑えの伊東昭光が全て救援・規定投球回数未到達ながら18勝で最多勝。広沢克己と池山隆寛が30本塁打以上を放ち、栗山英樹が規定打席未到達ながら打率.331を記録し台頭。巨人戦も8年ぶりに勝ち越し。, ラリー・パリッシュが本塁打王、新人の笘篠賢治が新人王を獲得。高卒3年目の内藤尚行が12勝8セーブと活躍。一方でパリッシュ・広沢・池山が共に100三振を記録。55勝72敗3分けの勝率.433にてシーズン4位に終わり、関根が監督を勇退、若松が現役を引退。このオフ、ヤクルト選手会は労組選手会に復帰した。, 野村克也が監督に就任。チームは前年本塁打王のパリッシュを解雇し(阪神に移籍)、代わりにドウェイン・マーフィーを獲得、さらに当時メジャー133勝の実績を誇ったフロイド・バニスターを獲得した。野村は新人の古田敦也を正捕手に起用、またそれまで捕手だった飯田哲也をセカンド(後にセンター)にコンバートし柳田浩一をレギュラーに抜擢する。高卒2年目の川崎憲次郎が12勝。しかし、この年はマーフィ-やバニスターの不振及び早期退団、荒木・高野・伊東らの長期離脱、内藤らの不振もあり、58勝72敗の勝率.446。中日戦で7年ぶりに勝ち越したが、優勝した巨人から30ゲーム差もつけられ、目の前で優勝を決められて5位に終わる。オフに栗山英樹が引退。, 6月に球団新記録の12連勝(それまで当時の12球団で唯一、2ケタ連勝がなかった)で一時は首位に立つも、その後失速し優勝争いから脱落するが、最終戦に勝利し3位を確定。67勝63敗2分けの勝率.515にて11年ぶりのAクラスかつ5割以上を記録。広沢が打点王、古田は捕手としては野村以来26年ぶり、セ・リーグでは初の首位打者となる。この年限りで尾花高夫が引退。, キャンプ中の怪我により前年14勝の川崎を欠く苦しいシーズンとなるも、広島・巨人・阪神との優勝争いとなる。西村龍次と岡林洋一以外の先発陣が手薄だった投手陣は4月に高野、5月に伊東と、故障で長年離脱していたベテランが復活。開幕ダッシュに成功し首位を走るも、7月の巨人との天王山で3連敗。前半戦を3位で折り返す。後半に入ると、前半戦わずか8本塁打のジャック・ハウエルが本塁打を量産し首位に返り咲く。一時は貯金15を数え、逃げ切れるかに見えたものの、100試合を過ぎた辺りから投手陣全体の駒不足に苦しみ始めた挙げ句大失速。チームは9月に入り9連敗[注 12] を喫した(この間に、阪神戦で一時抑えに回った岡林による9イニングに及ぶ救援投球という引き分け試合あり)。貯金3の3位まで転落するが、9月24日に荒木が1541日ぶりの復活登板を果たし息を吹き返す。巨人、広島の脱落により、阪神との一騎打ちとなった本拠神宮球場での10月6日からの直接対決2連戦では、まず初戦は広沢の決勝ソロ、岡林の完封により勝利、ともに66勝60敗で並ぶ。翌7日は9回裏1死まで1-3と苦しい展開に追い込まれるも、広沢の四球を足がかりに、飯田の三塁内野適時打、荒井の左前適時サヨナラ打などにより奇跡的な逆転勝利を掴み、一気に優勝に近づいた。10月10日の甲子園での阪神との直接対決でハウエルが2打席連続本塁打、先発荒木の好投を受けて最後は伊東が締めくくり14年ぶりの優勝。後半戦だけで30本塁打のハウエルは首位打者と本塁打王の二冠となり、MVPも獲得した。最終成績は69勝61敗1分けの勝率.531。日本シリーズは西武ライオンズと対戦。シーズン中同様に怪我人等の投手駒不足で、岡林が7戦中3戦先発完投(延長12回と延長10回が各1試合あり、計30回投球したことになる)、伊東・金沢次男が岡林が完投した試合以外中継ぎで全試合登板(中継ぎのみの登板はこの2名だけ)、シーズン未勝利の高卒新人石井一久を先発で起用と、総力戦で西武に食らいつき、第7戦延長10回まで行きながら3勝4敗で敗退。同年オフ、長嶋一茂が巨人に移籍。この年のシーズン観客動員数247万7000人は、2015年シーズン終了現在、球団記録である[11]。, 前年苦しんだ投手陣の底上げを図る。前年不在だったストッパーの座に開幕直後は山田勉、5月からは高津臣吾が座り、先発投手陣では新人の伊藤智仁が故障で離脱するまで7勝、5完投、4完封、防御率0.91の驚異的な活躍で新人王を獲得。岡林は前年の酷使の影響で不調だったが、西村、伊東、荒木、そして故障から復活した川崎憲次郎と宮本賢治が投手陣を支えた。なお、5月19日の対広島戦では、互いに凄まじい打撃戦を展開の上、延長14回17-16にて勝利を収めている。ペナントレースは夏場から中日との一騎打ちとなり、8月末から9月頭のナゴヤ球場での直接対決3連戦での敗北で1度は首位を明け渡したものの、終盤での11連勝などが効き、中日を突き放した。広沢が2度目の打点王、ハウエルがサヨナラ本塁打5本と勝負強さを発揮しリーグ2連覇。広島戦では6年ぶりに勝ち越した。日本シリーズでも4勝3敗で西武に前年の雪辱を果たし15年ぶりの日本一、シリーズMVPの川崎はカムバック賞も受賞した。正力松太郎賞を野村監督が、シーズンMVPを古田がそれぞれ獲得。オフに杉浦と八重樫が引退。, 高津が最優秀救援投手を初受賞するが、伊東、川崎、西村、荒木ら投手陣の不調・故障離脱が相次ぐ。さらに古田が右手負傷で戦線離脱したことや池山の怪我、ハウエルや新外国人ジェラルド・クラークらの不調も響き、2年連続リーグ制覇から一転して62勝68敗の勝率.477で阪神と同率4位。初優勝時のメンバーで最後の現役選手だった角富士夫が引退。シーズン終了後、広沢克がFAを宣言し巨人へ移籍、自由契約のハウエルも巨人に入団する。, 広沢とハウエルが入団した巨人相手に不利が予想されたが、巨人との開幕第2戦を桑田真澄の危険球退場をきっかけに逆転勝ちし流れが一変。打撃陣は古田、飯田がシーズン通して活躍。土橋勝征が野村監督から影のMVPと賞賛される活躍で後半3番に定着、阪神を解雇されたトーマス・オマリーが狭い神宮で本塁打を量産し自身初の30本塁打。同じくロッテを解雇されたヘンスリー・ミューレンも下位打線で29本塁打を放ち、池山と「第2のクリーンアップ」を形成した。投手陣はテスト入団の新外国人テリー・ブロスが9月9日の巨人戦でノーヒットノーランを達成、最優秀防御率を獲得する。西村とのトレードで近鉄から移籍してきた吉井理人、2年目の山部太、4年目の石井一が揃って二桁勝利。9月30日に本拠地神宮球場にて巨人を5-0で下し2年ぶりのリーグ優勝(最終成績は82勝48敗の勝率.631)。オリックス・ブルーウェーブとの対戦となった日本シリーズでもオマリーが活躍、古田を中心とするバッテリーもイチローを中心とする相手打線を抑え4勝1敗、2年ぶりの日本一に輝いた。, ダイエーから移籍の田畑一也が12勝、西武から戦力外通告を受け移籍の辻発彦がリーグ2位の打率3割3分3厘をマーク。しかし、シーズンはブロスや山部、高津、古田、ミューレンの不調や岡林、川崎、石井一らの故障による長期離脱が相次ぎベストメンバーをそろえることができず、1度も首位戦線に絡めないまま61勝69敗、勝率.469のリーグ4位に終わる。, オマリーとミューレンが抜けたものの、この年も「野村再生工場」が冴え渡る。広島を自由契約になった小早川毅彦が入団、開幕戦の巨人戦で、それまで3年連続で開幕戦完封を続けていた斎藤雅樹から3打席連続ホームラン。中日から自由契約となった野中徹博が13年目で初勝利、ダイエーから自由契約となった廣田浩章もリリーフ陣を支える。開幕前は低評価だった新外国人のドゥエイン・ホージーが巨人・松井秀喜を抑え本塁打王を獲得。4番の座には古田が就き、本塁打こそ9本だったが高打率をマークし「つなぎの4番」として君臨した。投手陣では田畑が15勝、吉井が13勝、伊藤智も高津とのダブルストッパーで復活した。終盤、横浜ベイスターズに最大10あったゲーム差を3.5まで迫られるが、9月2日の直接対決で石井一がノーヒットノーランを達成するとその後は横浜を突き放し結果的に11ゲームという大差をつけ2年ぶりの優勝(最終成績は83勝52敗2分け、勝率.615)。日本シリーズでも東尾修監督率いる西武を4勝1敗で退け4度目の日本一。古田が4年ぶり2度目のシーズンMVPに輝いた。オフに吉井がFAでMLBのニューヨーク・メッツに移籍。, 開幕直前に日本ハムとの交換トレードで野口寿浩を放出し、のちに選手会長となる城石憲之を獲得。同年、高卒新人の五十嵐亮太を擁し、球団史上初のファーム日本選手権制覇を達成した。しかし1軍は、巨人との開幕3連戦3連敗もあってシーズン当初から波に乗れず、川崎が17勝で最多勝、石井一が最多奪三振を獲得するも、新外国人ライル・ムートンやマーク・エーカー、ホージー、古田ら投打の歯車が合わず66勝69敗、勝率.489の4位に終わる。野村は同年限りで退団し、後任には打撃コーチの若松勉が就任。, 先発陣(石井一久・伊藤智仁・川崎憲次郎)が総じて1ケタ勝利に終わるなどし66勝69敗、勝率.489の4位と低迷したが、前年まで通算8勝の高木晃次がプロ入り初の規定投球回数に到達[注 13]してチームの日本人最多の9勝を、新外国人のジェイソン・ハッカミーがチーム最多の12勝を挙げた。野手陣ではハッカミー同様新外国人のロベルト・ペタジーニが44本塁打を放ち本塁打王を獲得、オリックスからトレードで来た高橋智が復活をアピールし、主に守備要員だった佐藤真一が突然の打撃開眼でチームを牽引。またプロ3年目の岩村明憲の成長など明るい話題もあった。なお長年続いていたユマキャンプはこの年限りで撤退している。, 石井一久がシーズン最終登板で中日の山本昌を抜いて最優秀防御率のタイトルを獲得する。五十嵐も前半リリーフ登板だけで11勝を挙げる活躍をしたが、チームの好不調の波が激しく、66勝69敗1分け、勝率.489と過去2年と同じ成績で3年連続の4位に終わるが、優勝した巨人には16勝11敗と勝ち越した。オフにハッカミーが退団。, 投手陣は川崎がFAで中日に移籍、伊藤智、新外国人アラン・ニューマン、ジョナサン・ハーストらの故障離脱で先発投手が不足する中、石井一以外、新しい投手陣に様変わり。2年目の藤井秀悟が14勝を挙げ最多勝、巨人を解雇されテスト入団の入来智とオリックスを解雇されテスト入団2年目の前田浩継の「リストラ組」もそれぞれ10勝、7勝とローテーションを支え、横浜を解雇された島田直也がチーム2位の52試合に登板。打線も、本塁打と打点の2冠のペタジーニ、打率2位の古田を筆頭にレギュラー8人(他は真中満、宮本慎也、稲葉篤紀、岩村明憲、アレックス・ラミレス、土橋勝征)が全て規定打席到達という安定ぶりで、この年のみ採用の「勝利数優先」の順位決定方式を逆手に取り、巨人を振り切り4年ぶりのリーグ優勝。若松は球団生え抜きとして初の優勝監督となった。10月6日、優勝を決め胴上げされた直後のインタビューで、ファンへの感謝を言うべきところ「ファンの皆様、本当に…あのぉ、おめでとうございます!」と言い間違え、球史に残る名言となった[12]。日本シリーズでは大阪近鉄バファローズと対戦。近鉄自慢の「いてまえ打線」を封じ込めて4勝1敗で4年ぶりの日本一を達成。オフに石井一が大リーグのロサンゼルス・ドジャースに移籍した。, この年、セ・リーグは勝数で順位を決定した。ただし、勝数が最も多い球団と勝率が最も高い球団が異なる場合はプレーオフで優勝決定する方式へと変更し、マスコミ等に掲載される順位表も勝数順とされた。しかし各球団試合消化数には違いがあり、実際に優位に立つのは勝率の高いチームだった。, ドーム球場をフランチャイズとして順調に試合を消化した巨人に対し、雨天中止があるヤクルトは例年に比べてさらに試合消化が鈍かった。このため前半戦終了時には巨人の方が試合数が多いため勝数も多く首位に立ったが、勝率ではヤクルトが上回り、ゲーム差(勝数優先の順位表では表示されなかったが)でも4.5差をつけていた。この「隠れ首位」の状態は8月まで続いた。, このような経緯があったためか、2002年からは勝率優先の順位へと戻った。ただし、2007年のクライマックスシリーズ導入までは勝率が最も高い球団と勝数が最も多い球団とが異なる場合はプレーオフで優勝を決定することは変わらなかった。, チームは2位を確保。ルーキー・石川雅規が12勝を挙げ新人王に、石井弘寿が69試合に登板し最優秀中継ぎ投手に選出された。また、前年に途中入団したケビン・ホッジスが最多勝を獲得した。黄金時代を支えた池山隆寛はこの年限りで引退。シーズンオフにペタジーニが巨人に移籍した。, シーズン前に西武を自由契約となっていた鈴木健を獲得。高津臣吾が佐々木主浩の持つ通算229セーブのプロ野球記録を更新し、最優秀救援投手を獲得した。高津はオフに大リーグのシカゴ・ホワイトソックスに移籍。また、来日3年目のアレックス・ラミレスが本塁打王・打点王・最多安打と3つのタイトルを獲得し、ペタジーニの穴を埋める活躍を見せた。チームは中日・巨人・広島とのAクラス争いの末、巨人と同率の3位。, 年間の総得失点差が-73点だったにもかかわらず、最終戦で巨人を抜き72勝64敗の2位でシーズンを終え、球団史上初の4年連続Aクラスを達成した。オフに稲葉篤紀が日本ハムへFA移籍。, 4月24日、古田が捕手としては野村克也以来史上2人目、大学・社会人を経てプロ入りした選手としては史上初の通算2000本安打を達成。シーズン結果は4位。シーズン終了後、若松は監督を退任。後任は古田が選手兼任監督として就任した。二軍はこの年から社会人大会に出場している(詳細)。球団はシーズンオフに、メジャーから日本への復帰を果たした石井一を2年契約により獲得し、広島の4番打者だったグレッグ・ラロッカも獲得するなど積極補強に動いた。, 前年12月19日のプロ野球実行委員会で、古田の悲願だった地元密着型として「東京ヤクルトスワローズ( Tokyo Yakult Swallows )」へのチーム名変更が全会一致で承認され、ユニフォームに国鉄時代以来となる「Tokyo」の文字が復活した。2006年も前年同様、リック・ガトームソンがノーヒットノーランを達成するなどの活躍で交流戦2位になるが、交流戦終了後はほぼ5割ラインに停滞し続ける。結果3位となり2年ぶりにAクラスは確保したが、優勝争いにからむことはほとんどなかった。11月4日には神宮球場において東京六大学選抜とヤクルトによるアマ・プロ交流試合が実施され、外国人選手とFA移籍を控えた岩村を除く一軍メンバーが出場。試合は3対2でヤクルトが勝利している。この年のオフ、岩村が大リーグ・タンパベイ・デビルレイズ(当時)へ移籍。ガトームソンがソフトバンク・ホークスへ、ラロッカがオリックスへ移籍。, 五十嵐、石井弘寿の「#ロケットボーイズ」が手術の影響でシーズンを棒に振ったのを皮切りに、ディッキー・ゴンザレス、アダム・リグス、高津臣吾などの主力級が次々と離脱、まったく戦力が整わなかった。最終的に青木宣親が首位打者、アレックス・ラミレスが打点王・最多安打、セス・グライシンガーが最多勝投手になるが、シーズンはナゴヤドームでの開幕3連戦3連敗から1度も立ち直れず、143試合目で1986年以来21年ぶりの最下位を確定させてしまう。8月から、東京のUHF、東京メトロポリタンテレビジョン(TOKYO MX)で2007年度初のテレビ中継が開始[注 14]。以前から年間数試合は中継があったが、近年は1試合も中継が無い年もあった。9月、古田の現役引退・退団が発表された。なお、伊東昭光も辞意を表明したため、チーム最年長コーチの八重樫幸雄がヘッドコーチ代理を兼任していた。後任監督は高田繁、1軍投手コーチに荒木大輔がヤクルトに復帰した。一方、選手では、打点王・最多安打のラミレスとこの年16勝を挙げたグライシンガーが巨人へ、石井一久がFAで西武へ移籍、石井の人的補償として福地寿樹を獲得した。年明けには藤井秀悟を交換要員とする3対3のトレードを日本ハムと行い、押本健彦、川島慶三らを獲得した。, 前年チーム勝利数1位グライシンガー(16勝)、2位石井一久(9勝)、3位藤井秀悟(7勝)が軒並み移籍し残った選手の勝ち星が4勝以下だった事もあり不安視されたが、巨人に開幕3連勝をするなど4月終了時は3位に立ったが、石川雅規、館山昌平に続く先発が不在となる。野手では福地寿樹や飯原誉士をはじめとする俊足の選手が中心となったが、前年本塁打王争いを演じたアーロン・ガイエルの離脱などで長打力に欠けた。夏場には北京オリンピックで青木と宮本が離脱したため戦力が安定せず、シーズン終盤に8連敗(そのうち3試合がサヨナラで7試合が1点差)を喫し、CS争いを繰り広げる中日、広島に引き離され5位に終わった。しかし、前年まで崩壊していたリリーフ陣が怪我で苦しんでいる最中に、林昌勇、押本健彦が活躍し、前年登板が無かった五十嵐が復活、先発で結果が出なかった松岡健一が転向し結果を残すなど整備が進んだ。, 横浜からFA権を行使した相川亮二を獲得し、球団初のFA獲得選手となった。長打補強のためジェイミー・デントナを獲得した。このシーズンは序盤から2位をキープして前半戦で貯金を最大14まで伸ばしたが、後半戦に入った途端に急失速、8月には1971年8月以来となる月間18敗(7勝)、9月にも1992年以来の9連敗を喫し、さらにはチームを支えてきた田中浩康や飯原、宮本、川島慶三といった主力が怪我で離脱、宮本が強行出場するなど厳しい状態が続き、一時は阪神や広島に抜かれ5位に転落した。しかし、高木啓充や鬼崎裕司の登場で息を吹き返し、10月9日の対阪神戦との直接対決に勝利して3位が確定し、3年ぶりのAクラス入りで初のクライマックス・シリーズ進出を決めたが、結果的に後半戦の大失速が響いて初の勝率5割未満のCS出場チームとなっている[注 15]。, 中日とのクライマックス・シリーズ第1ステージでは、第1戦は石川の好投とデントナの逆転本塁打で勝利したが、新型インフルエンザにより選手が離脱したことも響いて、2・3戦と中日に2連敗。1勝2敗で敗退した。オフには、五十嵐亮太がFAで大リーグ・ニューヨーク・メッツに移籍。, 阪神からFAで獲得した藤本敦士の活躍で開幕3連戦で鬼門の東京ドームで勝ち越すなど好調な滑り出しだったが、4月中旬以降は失速。交流戦で9連敗を喫するなど、一時は最下位に転落した。5月26日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦をもって高田が辞任[13]、ヘッドコーチの小川淳司が監督代行として指揮をとることになった。, 6月に打線の補強としてジョシュ・ホワイトセルを獲得し、トレードではリリーフ陣の強化のため渡辺恒樹や山岸穣を獲得。小川体制になってからのヤクルトは、野手陣と投手陣共に奮起し徐々にチーム状況が好転していく。6月に14勝8敗、7月に11勝8敗、8月には10連勝を含む18勝8敗と大きく勝ち越す。8月24日の対横浜ベイスターズ戦で勝率を5割に復帰させ、その後も勝率5割前後を維持しながら、3位とのゲーム差を徐々に詰め、最小で3.5ゲームまで3位との差を詰める。しかし、最終的には前半戦の不振が響いた形となり、4位となりCS進出はならなかったが、72勝68敗4分けとシーズン成績は6年ぶりに勝ち越した。, このシーズンはリーグ優勝した中日に相性が良く、セ・リーグ他球団が苦手としたナゴヤドームでリーグ唯一の勝ち越し(シーズン通算で7勝4敗1分け。小川体制移行後に限れば5勝1敗)、シーズン対戦成績も15勝8敗1分けと唯一勝ち越し、特に小川体制移行後は12勝3敗と圧倒した。高田監督時代に非常に苦手にしていた巨人に対しても、後半戦は同一カード3連勝を含む対巨人戦5連勝などもあり、小川体制に代わってからは8勝7敗1分けと勝ち越している。, 東日本大震災の影響により、開幕日が当初の3月25日から4月12日に延期された。開幕直後はウラディミール・バレンティンや畠山和洋などが好調で4月下旬にはセ・リーグの首位に立った。その後も首位をキープし続け、8月には阪神に一時詰め寄られるも9月に9連勝して阪神の追撃をかわし、対巨人戦は12勝8敗4分と11年ぶりに勝ち越した。しかしバレンティンや畠山ら主軸打者がシーズン終盤から相次いで打撃不振に陥ったことに加え、主力選手の離脱が相次ぎ、最大10ゲーム差をつけていた2位中日との直接対決は9月以降で1勝8敗と大きく負け越し2位に後退する。最終的に70勝59敗15分、首位とは2.5ゲーム差で10年振りのリーグ優勝を逃した。クライマックスシリーズファーストステージで巨人に2勝1敗で勝利、球団初のファイナルステージに進出したが、中日に2勝4敗で敗退した。石井弘寿が現役引退。バレンティンが本塁打王を獲得。, 青木宣親がポスティングシステムを利用して大リーグ・ミルウォーキー・ブルワーズに移籍。3月19日には球団事務所が東京都港区の東新橋から明治神宮野球場にほど近い北青山に移転した[14]。3月30日の開幕・巨人戦で球団史上初の開幕戦完封勝ちを記録(対する巨人は球団史上初の開幕戦完封負け)し、4月24日に対中日戦(神宮)に勝利し首位タイとすると[15]、続く26日の同カードでも勝利して単独首位に立つが[16]、交流戦では5月30日に対日本ハム戦(神宮)に敗れて、チーム39年ぶりとなる10連敗を記録するなど[17] 9勝15敗の最下位に終わり巨人・中日の首位争いから後退、前半戦は広島と同ゲーム差の4位となり、後半戦は広島との3位争いとなる。9月29日、対中日戦(神宮)に0対4で敗れたが、この日広島も阪神に敗れたため、3位確定とし2年連続のクライマックスシリーズ出場を決めている[18]。クライマックスシリーズファーストステージでは、中日と対戦。1勝1敗とした第3戦で1対0でリードしていた8回裏にトニ・ブランコに満塁本塁打を打たれて逆転され敗戦、1勝2敗で敗退している[19]。5月4日に宮本慎也が通算2000本安打を達成した。, 福地寿樹[20] と宮出隆自[21] が現役引退。バレンティンが2年連続本塁打王を獲得。林昌勇が退団[22]。一方で、元楽天の岩村明憲を獲得。岩村は7年ぶりの古巣復帰となる[23]。, 5月以降は最下位に低迷[24]。9月23日の対阪神戦(甲子園)に0対2で敗れクライマックスシリーズ進出の可能性が消滅し、3年ぶりのBクラスが確定し[25]、続く10月1日の対巨人戦(神宮)で1対0で敗れたことで、6年ぶりの最下位が決まった[26]。本拠地・神宮球場では31勝32敗1分だったが、神宮以外の球場では26勝51敗3分と大きく負け越した[24]。特にウラディミール・バレンティン以外の野手で規定打席到達者が出ないなど、野手陣の不調・故障が響いた。, ウラディミール・バレンティンが8月に日本プロ野球新記録の月間18本塁打を記録するなど[27] 本塁打を量産、9月15日の対阪神戦(神宮)で日本プロ野球新記録のシーズン56号本塁打とアジア野球新記録の57号本塁打[28] を記録し、この年60本として3年連続本塁打王を獲得。投手では新人の小川泰弘が16勝4敗で最多勝と勝率第1位投手賞の2冠を獲得[29]。宮本慎也、藤本敦士が引退[30][31]。, 終盤まで最下位に低迷し、9月22日に小川淳司監督が球団に申し入れ、今季限りで監督を辞任することを会見で表明[32]、9月29日の対広島戦(マツダ)に敗れ2年連続最下位が決まった[33]。規定打席到達し3割2桁本塁打の打者5人(山田哲人、雄平、畠山和洋、川端慎吾、バレンティン)を擁し、チーム打率・得点数はリーグトップであった反面、規定投球回に到達した投手はリーグ防御率最下位の石川雅規のみであり、チーム防御率・失点数は最下位であった。10月8日、後任にチーフ打撃コーチの真中満の就任が発表された[34]。, シーズン前には2年連続の最下位低迷から脱却するため、大型補強を慣行した。国内FA権を行使した成瀬善久(千葉ロッテマリーンズ)と大引啓次(北海道日本ハムファイターズ)をそれぞれ獲得[35]、さらにメジャーリーガーのローガン・オンドルーセックとも契約を結んだ[36]。一方で相川亮二がFA権を行使して読売ジャイアンツへ移籍するも、人的補償で奥村展征を獲得した[37]。, シーズン開幕後は、プロ野球記録となる14試合連続3失点以下を達成する[38] など投手陣が好調だったこともあり一時は首位に立ったが、5月に入ると9連敗を喫し最下位に転落した[39]。バレンティンやラスティングス・ミレッジら主軸選手の怪我もあり5月22日にミッチ・デニング(BCリーグ・新潟アルビレックス)と基本合意した[40][41]。前半戦は4位ながらも首位・DeNAとは僅差の状態でターンした[42]。後半戦突入後は阪神・巨人とのデッドヒートの末、9月24日の対DeNA戦に4-2で勝利して3年ぶりのAクラス入りとセ・リーグ一番乗りでのクライマックスシリーズ進出を決め[43]、9月27日の対巨人戦に勝利し優勝へのマジックナンバー「3」を点灯させた[44]。そして10月2日の対阪神戦(神宮球場)に2-1で勝利し、14年ぶり7度目のセ・リーグ優勝を決めた[45]。前年度最下位からのリーグ優勝は1976年の巨人以来[注 16] となり、2年連続最下位からのリーグ優勝は2001年の大阪近鉄バファローズ以来となった。バーネットが自身2度目となる最多セーブ投手、川端慎吾が首位打者と最多安打、山田哲人が本塁打王と盗塁王と最高出塁率、畠山和洋が打点王のタイトルをそれぞれ獲得し[46]、山田は史上9人目となるトリプルスリーも達成した[47]。クライマックスシリーズでも4勝1敗(アドバンテージの1勝を含む)にて巨人を下して14年ぶりの日本シリーズ進出が決定。日本シリーズでは福岡ソフトバンクホークスと対戦し、1勝4敗で敗退して2001年以来の日本一を逃した。, シーズン終了後、バーネットがテキサス・レンジャーズに移籍[48]。オリックス・バファローズを自由契約となった坂口智隆、北海道日本ハムファイターズを戦力外となった鵜久森淳志を獲得[49]。一方で、由規が肩の負傷を理由に戦力外となり、育成選手契約を結んだ。, 3月23日、選手10名が去年夏の高校野球決勝の勝利チームを予想し賭け金を集め、予想のあたったものに分配していたことが発覚した[50]。, チームは主砲のバレンティンを欠いたことが響き、9年ぶりの開幕4連敗を喫した[51]。以降もドラフト1位ルーキーの原樹理が右肩甲下筋肉離れ、エースの石川が左脹脛痛、館山も右肘の手術と投手陣だけでなく、NPB史上初めて2年連続のトリプルスリーを達成した山田が左第八肋骨骨挫傷、昨年首位打者の川端が右足舟状骨骨折、打点王の畠山も左手首痛、雄平が左脇腹痛、大引も腰痛で離脱と昨年にはなかった主軸の故障者が続出した事で下位に低迷した[52]。6月26日の中日戦では守護神・オンドルセクが守備固めで入っていた比屋根のミスで同点に追い付かれたことに対し降板後暴言を吐き、謹慎処分が下された事が引き金となって7月21日に退団[53] し更なる苦境に陥る。低迷するチーム状況の中で球団は5月30日、韓国から河載勲(ジェフン)を獲得し、7月5日には由規を支配下に復帰させ7月20日には八木亮祐をオリックスに放出して近藤一樹をトレードで獲得しテコ入れを図った。7月24日の対中日戦で由規が1786日振りの勝利を挙げた[54]。9月19日にDeNAが勝利したことでBクラスが確定し[55]、最終成績は5位に終った。山田が2年連続のトリプルスリーを獲得した[56] ものの、投手陣はチーム防御率4.73(5位DeNAと約1点差)、失点694(5位DeNAと106点差)とセ・リーグ最下位[57]、1970年以来の2桁勝利投手ゼロ[58] と不名誉な記録を残した。, 前年と同じく川端[59]、畠山[60]、バレンティン[61]、中村悠平[62]、小川[63]、秋吉亮[64]、雄平[65]、大引[66] らチームの主力級に故障が相次ぎ交流戦から終盤まで最下位に低迷した。5月30日のオリックス・バファローズ戦から6月10日の千葉ロッテマリーンズ戦まで10連敗、そして7月1日の阪神戦から7月21日の阪神戦まで、14連敗を喫した。前半戦だけで二度の10連敗以上の大型連敗を喫し、これは1956年の高橋ユニオンズ以来61年ぶりであった[67]。7月26日の対中日ドラゴンズ戦(神宮)で史上4度目、セントラル・リーグでは66年ぶりとなる最大10点差(延長10回)をひっくり返しての逆転勝利を収める[68] も記録的な低迷は続き、最終的には球団ワースト記録を更新する96敗を喫し、3年ぶりの最下位となった[69]。また、チーム打率・得点・本塁打もリーグ最下位に終わった。真中監督が辞任し、後任監督として2014年まで指揮を執った小川淳司が復帰することとなった[70]。, 2月7日に元メジャーリーガーの青木宣親が7年ぶりに復帰し[71]、シーズン序盤は苦戦したものの交流戦開始頃から巻き返し、6月17日の日本ハム戦に勝利して初めて交流戦最高勝率を決めた[72]。過去2年は怪我人に泣かされたが大きな故障者も出ず、後半戦でもAクラスを維持し10月1日には3年ぶりとなる3位以内とCS進出が決定した[73]。翌2日のDeNA戦に3-2で勝利して2位が確定し、神宮球場でのCS開催権を得た[74]。しかし迎えたCSでは巨人に2連敗し、3年ぶりの日本シリーズ進出はならなかった[75]。松岡健一、武内晋一、山本哲哉の3人が現役を引退した。, 1月24日にソフトバンクを戦力外となった五十嵐亮太を獲得、10年ぶりの復帰となった[76]。4月26日と5月26日に青木宣親、山田哲人、バレンティンによる同シーズン2度の三者連続本塁打を記録したが、5月14日から6月1日にかけてリーグワーストに並ぶ16連敗を喫する[77]など、序盤から苦しんだ。シーズンを通しては山田哲人、村上宗隆、バレンティンの3人が30本塁打以上を記録したが、投手陣が苦しんだこともあり、前年の2位から一転して借金23の最下位に沈んだ[78]。村上宗隆は高卒2年目ながら36本塁打96打点を記録し、新人王のタイトルを獲得、10代におけるシーズン最多本塁打を更新、中西太が1953年に記録した高卒2年目以内の最多本塁打に並んだ[79]。翌シーズンの戦力として、ドラフト会議では目玉であった星稜高校の奥川恭伸を3球団競合の末に交渉権を獲得[80]。楽天を退団した嶋基宏と今野龍太[81]、ソフトバンクとの再契約を保留していた長谷川宙輝を支配下として獲得した[82]。一方で、ヤクルトに9年間在籍して主軸を張ってきたバレンティンがソフトバンクへ移籍をした。館山昌平、畠山和弘、三輪正義、寺原隼人が現役引退を表明。, 小川淳司監督の辞任が決定し、宮本慎也ヘッドコーチの辞任も発表され[83]、次期監督には2軍監督を務めていた高津臣吾が就任することとなった[84]。, 新型コロナウイルスの影響で3月20日に予定されていたプロ野球の開幕は延期される[85]こととなり、6月19日に無観客試合で開幕した[86]。, メジャー通算1367安打、14年は青木と同僚で、15年には遊撃手としてゴールドグラブ賞を受賞したアルシデス・エスコバーが加入[87]。, シーズン序盤は上位争いを展開していたが、徐々に失速していった。10月14日のDeNA戦からベンチ担当の斎藤隆投手コーチとブルペン担当の石井弘寿投手コーチを入れ替えるなどしたが、2年連続最下位に終わった。, 「スワローズ」の名称は、当時の国鉄では唯一の特急列車、かつ日本最速だった「つばめ」号に由来する。球団旗には、列車のヘッドマーク等に使われていた「つばめマーク」を採用し、「スワローズ」のロゴデザインは国鉄のデザイン室がデザインしたものを今日まで使っている。スポーツ新聞の見出しでも「燕」あるいは「ツバメ」と書かれる事もある。, ペットマークは、基本的につば九郎を使ったものが使用されるが、一部メディアでは燕太郎を使ったものを使用。, 応援歌では、オリジナルで作曲したものと、従来のポップス曲に声援を加えたものとに分かれる。そして、得点が入るとビニール傘を振りながら東京音頭を歌うのが、スワローズの応援の特色。東京音頭を初めて応援に使ったのは東京オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)であるが、東京オリオンズの本拠地移動もあって、1978年の優勝と前後して始められた。神宮の応援団から始まったが、現在は全国で行われている。, 2013年よりリニューアルされた公式ファンクラブで、2015年3月現在さだまさし(歌手)と出川哲朗(ピン芸人)と村上春樹(作家)が芸能人枠として「SWALLOWS CREW名誉会員」に登録している。本拠地である神宮球場で行われる試合の前売りチケット購入や常設グッズショップ(スタジアム通り・神宮軟式球場敷地内)でのショッピングでもポイントが貯められる。, 会員はプラチナ・ゴールド・レギュラー・キッズ・ライト(いずれも有料)・無料の6種類となっている。, 2012年から、東京ヤクルトスワローズ・読売ジャイアンツ・横浜DeNAベイスターズとの3球団合同で「GSDBプロジェクト」を立ち上げファンクラブ会員に限り巨人・DeNA主催のヤクルト戦で来場ポイント付与や会員限定イベントの実施の他該当試合の前売りチケット優先販売や球場DJ・チアチーム・マスコットキャラクターの相互訪問を行っている。, 本拠地の神宮球場が大学野球最優先でスケジュールを組んでいる関係で、かつては広島と並んで地方開催がセ・リーグで最も多かった。特にセ・パ交流戦導入以前は日本全国といって良いほど各地で試合を行っていたが、日本ハムの札幌移転や仙台を本拠とする楽天の新規参入といったパ・リーグ加盟チームの地方分散化、さらには交流戦開始などの影響もあり2000年代後半以降は他球団同様、地方開催を縮小する傾向にあり、現状では年間で4 - 5試合に抑えられている[注 20]。, なお、2020年は、東京オリンピック・パラリンピック開催期間中とその前後は本拠地の神宮球場が資材置き場・VIP待機場所となるため使用不可となることから、巨人の本拠地である東京ドームで初の主催試合を7月上旬から9月上旬にかけて11試合行う予定で、他に松山の2試合と合わせて地方開催を13試合行う予定としていたが[注 21][92]、東京オリンピックの開催が延期になったことを受けて、東京ドームでの主催試合開催分は全て神宮球場での開催に変更になった[93]。, 2021年は、延期になった東京オリンピック・パラリンピック開催期間中とその前後は本拠地の神宮球場が資材置き場・VIP待機場所となるため使用不可となることから、巨人の本拠地である東京ドームで初の主催試合を8月下旬から9月上旬にかけて6試合行う予定で、他に松山の2試合及び静岡での2試合と合わせて地方開催を10試合行う予定である。, 地方開催の中でも特に開催の機会が多い球場として、秋田県立野球場(こまちスタジアム)、福島県営あづま球場、静岡県草薙総合運動場硬式野球場、松山中央公園野球場(坊っちゃんスタジアム)等が挙げられ、年次によっては同一球場で2試合が組まれることがある。このうち松山は秋季キャンプで使用している縁から、基本的に毎年2試合組まれており(2019年は1試合のみ)、特に2013年は3試合が組まれた。これらの球場では交流戦開始前にはなかった対巨人戦も行われるようになり、2009年は福島県営あづま球場で1試合、2010年は坊っちゃんスタジアムで2試合、2011年はあづま球場で1試合[注 22]と静岡県草薙総合運動場硬式野球場で4試合の計5試合[注 23]の巨人戦が地方開催が行われている[注 24](2020年も松山で2試合を開催予定[92])。, かつてはロッテの本拠地である千葉マリンスタジアム(現・ZOZOマリンスタジアム)でも東京六大学野球(早慶戦)が行われる毎年5月下旬に主催試合が開催されていたが、セ・パ交流戦開催に伴い2005年は7月開催となり、2006年以降は同球場を本拠地とするロッテ主催の交流戦に切り替えられて、ヤクルト主催では実施されていない。, この地方開催の多さもあってか、他チーム主催の地方開催試合で相性の良さを発揮することもある。例えば富山アルペンスタジアムで開催される巨人・中日主催試合では2016年9月現在8戦6勝2分けと負けがない。, 1970年代から2002年(平成14年)までのほぼ毎年、球団オーナー松園尚巳の出身地である長崎県での公式試合が開催されていた。, 1976年(昭和51年)ドラフト1位で入団した松園と同じ長崎出身の酒井圭一を当時球団最高額の契約金3000万で契約、しかし松園は「酒井はゴールデンルーキーだ。手取りで3000万円にできないものか」の鶴の一声で、800万円上乗せされた。さらに長崎市内のホテルで行われた酒井のためだけの入団発表には、松園オーナーも同席。その後、異例のパーティーまで開かれ、当時の長崎県知事ら県内の政財界の大物まで出席した。費用の200万円も球団が負担した[94]。松園は翌1977年(昭和52年)、地元紙長崎新聞の社長に就任。1988年(昭和63年)に退任するが、その翌年の1989年(平成元年)、長崎県民放テレビ第3局長崎文化放送(NCC)の初代代表取締役会長に就任。長崎文化放送は長崎新聞主導で設立され、ヤクルトスワローズの放送権を持っているテレビ朝日系列フルネット局となった。, 一方、長崎出身の歌手さだまさしは巨人・長嶋茂雄の大ファンだったが、1980年(昭和55年)に長嶋が巨人監督を解任されると同郷の松園と親交が深かったこともありヤクルトファンに転向。選手の長崎遠征時には名物の卓袱料理でもてなすなどしている。, 1997年(平成9年)に開場した長崎県営野球場で初めて公式戦(対広島東洋カープ戦)を行った際、9月6日の1戦目が雨で中止、翌日の試合では7回途中・降雨コールド負けとなった。その後も長崎での公式戦を開催していたが、松園が1994年に死去、またヤクルト本社の事業再編による長崎工場の閉鎖もあったためか、2002年を最後にヤクルト主催の公式戦は開催されていない。2009年(平成21年)、7年ぶりに長崎で試合を行ったがこの試合は巨人主催のビジターゲームだった。, 神宮球場は学生野球を最優先とするため、学生がデーゲームを基本とする以上、プロの試合はナイトゲームを原則とせざるを得ない。しかし、東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)直後には学生との調整を行って、神宮球場でデーゲームを行った例もある。, 地震発生直後の2011年3月、セ・リーグは一旦は3月25日に開幕させる決定をした。この時、ヤクルト球団事務所にはファンからの苦情電話が殺到した。9割が25日開幕に批判的な内容であったが、多くの企業が計画停電で損失を出している中で、デーゲームやドームを使わない、東北や関東での試合開催をしないという選択肢もありながら、新球団常務は「ヤクルト本社の損失も大きい」という理由から開幕を決断をした[95]。その後、文部科学省からの要請を受けると、一転してナイターを自粛し開催地を地方球場に変更する可能性があることを示唆した[96]。その後神宮を主会場とする東京六大学・東都の両大学生野球連盟の協力を得て、草薙に球場を変えた4月26日 - 4月28日の巨人戦以外の4月の主管試合については神宮でのデーゲーム開催が実現(学生野球は午前9時から1試合のみ開催)した。, 当時の親会社、産経新聞社の社旗(橙色地。中央に横の白地ライン、ライン部分に水色で「サンケイ」の文字)をアレンジしたものを使用。, チームの愛称「スワローズ」が日本語で燕を意味することから、それと同じ名前を地名にしている新潟県燕市と、燕市に本社を置くツインバード工業(家電)、和平フレイズ(調理器具)、エコー金属(日用品金属加工)、北越工業(重機械)、燕食品(食品加工)の5社が協賛し、2011年から「スワローズ・燕市交流事業」の取り組みをしている。(詳細後述), セ・リーグでは各球団の申し合わせにより、2002年度からホーム用ユニフォームに限定してスポンサー広告を掲出できるようになったが、スワローズでは2005年まで掲出していなかった。, 2006年、オフィシャルスポンサーとなったユニデンがホームユニフォーム左胸、カカクコムがヘルメットにそれぞれ掲出を開始したのを皮切りに、ユニフォーム広告を採用した。契約満了後の2008年は掲出を見送ったが、ユニフォームのデザインを変更した2009年に再開。2010年からは親会社・ヤクルト本社の商品名を記したエンブレムやステッカーを掲出している。, 球団として公認された永久欠番は2015年現在ない[注 27]。他に欠番的な背番号には以下のものがある。

.

絶縁 のテンペスト 最終巻 5, カナダからの手紙 なぜ カナダ 5, 京都 方言 語尾 7, プロジェクト計画書 体制 役割 4, 小児 肝機能 数値 高い 原因 4, 蠍座 好きな人 態度 9, ドラクエ10 戦士 装備 60 32, In Space 意味 4, 女王蜂 ドラム 下手 44, 鹿島線 Suica 使える 5, 宮台 真司 哲学 4, A と The 練習問題 4, Ly 意味 スラング 6, 共通テスト 時間配分 数学 26, 遊 漁船 紹介 24, ゲーム実況 広告収入 なくなる 39, 模倣犯 映画 ひどい 20, スキルス胃がん ブログ 余命 20, 金 八 先生 第6シリーズ スペシャル 43, 仁王2 神威 製法書 4, Jcb コンシェルジュ 居酒屋 22, クラウドワークス 年齢 非公開 15, マツコ 荷物 みたいな 名前 18, 石原慎太郎 父 職業 16, エアロバイク Vr 連動 30, Gsuite アカウント 作成 9, ヒトカゲ 野生 サンムーン 30, ららら クラシックコンサート 5 6, 楽天 アマゾン アフィリエイト 同時 13, 中飛車 本 おすすめ 初心者 10, 刺繍 練習 100 均 4, 星野源 カラオケ ランキング 5, タープテント 2m アマゾン 4, G&g Type64 Br 10, 振動マシン 子供 影響 9, 保育実習 やらかし た 5, Ta4 10 呼水槽 51, 大久保 祥太郎 ファン クラブ 6, 舞台俳優に なるには 大学 5, Kamen Rider Gaim Episode 41 Kissasian 5, オーフェン アニメ 評価 29, パシフィックリム ローリー 死亡 7, ミキ 実家 京都大学 8, 金犬くん イオン商品券 買取 4, 北陸銀行 支店長 一覧 4, イカリジン Cm 女優 42, 星のカービィ キャラクター イラスト 8, 斎藤さん ドラマ 子役 現在 5, Be動詞と一般動詞を 同時に 使う 11, 乃木坂 番組 まとめ 17, どてらい男 総決算 編 4, 紫川 氾濫 過去 13, プロ野球 公式記録員 年収 6, パワプロ オリ変 オリスト 同時 47, Projectsheet Planning Pro 19, リーダー論 高橋みなみ 名言 5, Ebay お礼 例文 9, カード 通販 遊戯王 5, キングダム 制作費 興行収入 4, Gantz 最終回 アニメ 28, 田上 パン屋 火事 7, 護衛艦 ひえい 解体 12, 鉄の骨 動画 3話 31, Visibility 意味 天気 7, 枝元雷亜 卒業 理由 27,