Say! Say! 1912年(ユリウス暦4月4日) - レナ虐殺事件。シベリアのレナ川付近でストライキを行っていた金鉱労働者をロシア帝国軍が射殺。1917年(ユリウス暦4月4日) - ロシア革命: 前日にロシアに帰国したばかりのウラジーミル・レーニンが「四月テーゼ」を発表。 「ハンガリー人全体における最悪の苦難は強姦による。10歳から70歳までが苦難を受けるのが普通であったが、極一部の女性のみが助かった。」 JAPAN』がサービスを開始。1996年 - 日本初のインターネット株取引(オンライントレード)を大和証券が開始。1996年 - 「らい予防法の廃止に関する法律」が施行。1997年 - 日本で消費税率が5%に引き上げられる。1998年 - 日本版金融ビッグバンスタート。1999年 - カナダで、ノースウェスト準州の一部を分割してイヌイットの自治準州・ヌナブト準州を創設。2000年 - 介護保険制度・成年後見制度施行(高齢化社会のための制度)。2001年 - 戦争犯罪の罪に問われていたユーゴスラビア大統領スロボダン・ミロシェヴィッチが警察の特殊部隊に投降。2001年 - 三井住友銀行発足。2001年 - 世界で初めてオランダが同性結婚法を施行。2002年 - みずほ銀行、みずほコーポレート銀行が発足。初日からコンピュータシステムのトラブルが相次ぐ。2002年 - DV防止法が全面施行。2002年 - 学習指導要領の見直しが図られ、完全週5日制のゆとり教育スタート。2003年 - 郵政事業庁が日本郵政公社に。2004年 - 日本航空が日本航空インターナショナル、日本エアシステムが日本航空ジャパンに。2004年 - 帝都高速度交通営団が民営化され、東京地下鉄株式会社(東京メトロ)に。2004年 - 日本育英会、財団法人日本国際教育協会、財団法人内外学生センター、国際学友会、財団法人関西国際学友会が合併し、日本学生支援機構設立。2005年 - 個人情報保護法全面施行。2005年 - ペイオフ全面解禁。2006年 - 地上デジタルテレビジョン放送が始まっている地域の放送区域でワンセグが本放送開始。2006年 - 地域団体商標登録出願受付開始。2006年 - ハイウェイカード廃止。2007年 - 学校教育法の一部が改正される。2009年 - 教員免許の更新制度が始まる。2009年 - 東京放送(TBS)が日本の放送局では2番目の放送持株会社に移行し、商号を東京放送ホールディングス(TBS HD)に変更、テレビ放送免許をTBSテレビに承継する。2009年 - 日本通運が「ペリカン便」に関わる事業をJPエクスプレスに譲渡。2009年 - アルバニアとクロアチアがNATOに加盟。 今日、誕生日の人1928年 - 塩沢とき、女優(+ 2007年)1929年 - ミラン・クンデラ、小説家1930年 - 木村尚三郎、西洋史学者(+ 2006年)1932年 - デビー・レイノルズ、女優、歌手1933年 - 石原藤夫、SF作家1933年 - クロード・コーエン=タヌージ、物理学者1934年 - 坂口力、政治家1934年 - 後藤修、元プロ野球選手1936年 - 若松孝二、映画監督1937年 - 瓦力、政治家1938年 - 近藤昭仁、元プロ野球選手・監督1938年 - 青木昌彦、経済学者1939年 - アリ・マッグロー、女優1939年 - フィル・ニークロ、元メジャーリーガー1940年 - ワンガリ・マータイ、環境保護活動家1941年 - 伊藤エミ、元歌手(ザ・ピーナッツ)1941年 - 伊藤ユミ、元歌手(ザ・ピーナッツ)1941年 - 阿部豪一、洋画家1941年 - 浜田輝男、実業家・北海道国際航空創業者(+ 2000年)1942年 - サミュエル・R・ディレイニー、SF作家1943年 - マリオ・ボッタ、建築家1944年 - 倉石功、俳優1944年 - 佐野嘉幸、元プロ野球選手1944年 - 石山修武、建築家1946年 - アリゴ・サッキ、サッカー指導者1948年 - 加藤典洋、文芸評論家1948年 - ジミー・クリフ、レゲエミュージシャン1949年 - 星田良子、TVドラマディレクター1951年 - 小川誠子、囲碁棋士1952年 - ベルナール・スティグレール、哲学者1953年 - バリー・ソネンフェルド、映画監督1953年 - アルベルト・ザッケローニ、サッカー指導者1954年 - 林真理子、小説家1954年 - ジャンカルロ・アントニョーニ、サッカー選手1954年 - ジェフ・ポーカロ、ミュージシャン(+ 1992年)1957年 - 姚濱、フィギュアスケート選手1958年 - 川上弘美、小説家1958年 - 杉浦文夫、経済評論家1959年 - クリスティアン・ティーレマン、指揮者1959年 - ヘルムート・ドゥカダム、サッカー選手1961年 - くじら、声優1961年 - 高橋克実、俳優1961年 - 羽場裕一、俳優1961年 - スーザン・ボイル、歌手1967年 - 相原勇、タレント1967年 - 鷲尾いさ子、女優1968年 - 桑田真澄、元プロ野球選手1968年 - ユリオカ超特Q、お笑いタレント1968年 - 武田良太、自民党衆議院議員1969年 - 関川浩一、元プロ野球選手1971年 - 伊藤智恵理、歌手1971年 - 中野信治、レーシングドライバー1971年 - メソッド・マン、ラッパー1972年 - 雷門幸福、落語家1973年 - 八木沼純子、スポーツコメンテーター・プロフィギュアスケート選手1974年 - パオロ・ベッティーニ、自転車プロロードレース選手1974年 - 鈴森勘司、声優1975年 - 脇阪薫一、レーシングドライバー1976年 - クラレンス・セードルフ、サッカー選手1978年 - オルガ・シャルテンコ、フィギュアスケート選手1979年 - イヴァノ・バリッチ、ハンドボール選手1980年 - ランディ・オートン、プロレスラー1980年 - 竹内結子、女優1980年 - ヤセール・ゴメス、野球選手1980年 - ヴァレリー・マルコー、フィギュアスケート選手1981年 - KEI、漫画家・イラストレーター1981年 - 細川慎弥、レーシングドライバー1981年 - ハンナ・スピアリット、女優、歌手、ファッションモデル1982年 - アンドレアス・トルキルドセン、陸上競技選手1983年 - 甲田良美、プロゴルファー1984年 - 神田咲実、ファッションモデル1984年 - 近藤さや香、SDN481986年 - 宮本駿一、歌手1986年 - 中村友梨香、陸上競技選手1989年 - 宇浦冴香、歌手1989年 - 杉本有美、ファッションモデル1993年 - 岡本圭人、タレント(Hey! 紛爭解決ニ至ラサルトキハ聯盟理事會ハ全會一致又ハ過半數ノ表決ニ基キ當該紛爭ノ事實ヲ述へ公正且適當ト認ムル勸告ヲ載セタル報告書ヲ作成シ之ヲ公表スヘシ, 聯盟理事會ノ報告書カ【紛爭當事國ノ代表者ヲ除キ】他ノ聯盟理事會員全部ノ同意ヲ得タルモノナルトキハ聯盟國ハ該報告書ノ勸告ニ應スル紛爭當事國ニ對シ戰爭ニ訴ヘサルヘキコトヲ約ス(報告書が当事国を除く理事会全部の同意を得たときは連盟国はその勧告に応じた紛争当事国に対しては戦争に訴えない), 坂本夏男「盧溝橋事件勃発の際における牟田口廉也連隊長の戦闘開始の決意と命令」『芸林』42(1), p2-23, 1993-02, 林 総領事 「第215号(外機密)」 1941年6月12日 JACAR Ref.B09030198500 画像8枚目。, 特高資料では「9月28日」とされているが、上記「褒賞上申書」や和歌山県で北林の逮捕に立ち会った元和歌山県警刑事の証言により実際の逮捕日は9月27日であることが渡部富哉によって確認されている, ロビン・L・ライリー 『KAMIKAZE ATTACKS of WORLD WAR II』Mcfarland 320頁, 首相交代による。チャーチルは 7 月 26 日まで。アトリーは 27 日以降(ただし前半も次席として参加)。, 『アジア特電 1937~1985―過激なる極東』ロベール・ギラン著 矢島翠訳 毎日新聞社, 『戦時下のドイツ大使館―ある駐日外交官の証言』エルヴィン ヴィッケルト著 中央公論社.
=党人)政権」から、東條陸相兼首相という「軍事政権」への切り替えが行われ、国家を「戦時体制」に舵を向けたと、当然ながらイギリスやアメリカ、フランスやオランダなどの民主主義国家に受け止められるという、2つの点を完全に無視していた。, またこれまで日本では、岡田啓介や米内光政、桂太郎のように選挙を経ないで選出された軍事官僚が首相になることはあったものの、この様な陸海軍が好きに国をコントロールする軍事独裁体制はかつてなく、しかしこの体制は結局敗戦時の鈴木貫太郎まで続くことになる。, なお、このような中で9月27日のアメリカ共産党員の北林トモや10月10日の宮城与徳、10月14日の近衛内閣嘱託である尾崎秀実や西園寺公一の逮捕を皮切りに、ソ連のスパイ網関係者が順次拘束・逮捕され[76]。その後ドイツの「フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング」紙の記者をカバーとして、東京府に在住していたドイツ人のリヒャルト・ゾルゲなどを頂点とするスパイ組織が、日本国内で諜報活動および謀略活動を行っていたことが判明した。, 捜査対象に外国人がいることが判明した時点で、警視庁特高部では、特高第1課に加え外事課が捜査に投入された。その後に宮城と関係が深く、さらに近衛内閣嘱託である尾崎とゾルゲらの外国人容疑者を同時に検挙しなければ、容疑者の国外逃亡や大使館への避難、あるいは自殺などによる逃亡、証拠隠滅が予想されるため、警視庁は一斉検挙の承認を検事に求めた。しかし、大審院検事局が日独の外交関係を考慮し、まず総理退陣が間近な近衛文麿と近い尾崎の検挙により確信を得てから外国人容疑者を検挙すべきである、と警視庁の主張を認めなかった。, その後尾崎が近衛内閣が総辞職する4日前の10月14に逮捕され、東条英機陸相が首相に就任した同18日に外事課は、検挙班を分けてゾルゲ、マックス・クラウゼンと妻のアンナ、ブランコ・ド・ヴーケリッチの外国人容疑者を検挙し、ここにソ連によるスパイ事件、いわゆる「ゾルゲ事件」が明らかになった。, ゾルゲは日本軍の矛先が同盟国のドイツが求める対ソ参戦に向かうのか、イギリス領マラヤやオランダ領東インド、アメリカ領フィリピンなどの南方へ向かうのかを探った。尾崎などからそれらを入手することができたゾルゲは、それを逮捕直前の10月4日にソ連本国へ打電した。その結果、ソ連は日本軍の攻撃に対処するためにソ満国境に配備した冬季装備の充実した精鋭部隊を、ヨーロッパ方面へ移動させることが出来たと言われる。, ゾルゲの逮捕を受けてドイツ大使館付警察武官兼国家保安本部将校で、スパイを取り締まる責任者のヨーゼフ・マイジンガーは、ベルリンの国家保安本部に対して「日本当局によるゾルゲに対する嫌疑は、全く信用するに値しない」と報告している[77]。さらにゾルゲの個人的な友人であり、ゾルゲにドイツ大使館付の私設情報官という地位まで与えていたオイゲン・オット大使や、国家社会主義ドイツ労働者党東京支部、在日ドイツ人特派員一同もゾルゲの逮捕容疑が不当なものであると抗議する声明文を出した[78]。またオット大使やマイジンガーは、ゾルゲが逮捕された直後から、「友邦国民に対する不当逮捕」だとして様々な外交ルートを使ってゾルゲを釈放するよう日本政府に対して強く求めていた。, しかし友邦ドイツの新聞記者という、万が一の時には外交的にも大問題となるケースに対し万全を尽くした警察の調べにより、逮捕後間もなくゾルゲは全面的にソ連のスパイとしての罪を認めた。間もなく特別面会を許されたオット大使は、ゾルゲ本人からスパイであることを聞き知ることになる。その後の裁判で、ゾルゲやクラウゼンなどの外国人特派員、尾崎や西園寺などの近衛内閣嘱託、宮城や北林らの共産党員が死刑判決や懲役刑を含む有罪となった。なお当然ながら近衛の関与も疑われたが、その後の辞職と英米開戦で不問となった。, なお一方のソ連は、ゾルゲが自白し裁判で刑が確定して以降も、ゾルゲが自国のスパイであったことを戦後まで拒否し通していた。ゾルゲの死刑は、第二次世界大戦末期の1944年11月7日、関与を拒否し通していたソ連への当てつけとして、ロシア革命記念日に巣鴨拘置所にて死刑が執行された。死刑執行直前のゾルゲの最後の言葉は、日本語で「これは私の最後の言葉です。ソビエト赤軍、国際共産主義万歳」であった。, 東條首相の下で10月23日からは「帝国国策遂行要領」の再検討が行われたが、結局再確認に留まり、日米交渉の期限は12月1日とすることが決まった[79]。10月14日に日本は対アメリカの最終案として「甲案」と「乙案」による交渉を開始した。(これは当時の日本陸軍ができる最大の譲歩であった。), 11月6日には、日本政府は帝国国策遂行要領に基いて、南方軍にイギリス領マラヤやシンガポール、ビルマ、香港など、またオランダ領ジャワやアメリカ領フィリピンなどの攻略を目的とする「南方作戦準備」が指令され[80]、11月15日には発動時期を保留しながらも作戦開始が指令された[81]。, これを受け、11月26日早朝に「赤城」、「加賀」、「蒼龍」、「瑞鶴」、「飛龍」などからなる日本海軍機動部隊の第一航空艦隊は、南千島の択捉島単冠湾(ヒトカップ湾)からアメリカのハワイにある真珠湾の海軍基地に向け出港した。なおこれは、アメリカの出方により途中で引き返す可能性あることが、あらかじめ海軍上層部には伝えられていた。なおこの日本海軍の動きは、アメリカ側には全く察知されなかった。, また、太平洋航路の龍田丸の航海は、11月24日に横浜を出発し、12月7日前後にロサンゼルスへ入港する予定だった。だが、この時点で日本は12月8日の開戦を決定して準備を進めており、対英米開戦と共に龍田丸がロサンゼルスで拿捕されるのは確実であった。しかし大本営海軍部(軍令部)は、開戦日を秘匿するために龍田丸をあえて出港させることにする。ただし11月24日出発ではなく12月2日に出発を遅らせ、さらに海軍省は龍田丸の木村庄平船長に「12月8日零時に開封するように」との箱を渡した。なお日本郵船のロンドン線やハンブルク線などの欧州路線は、欧州戦域の悪化ですでに運休となっていた。, 11月27日(アメリカ時間11月26日)に、裏では日本軍による南方作戦準備が着々と進む中で、アメリカのコーデル・ハル国務長官から野村吉三郎駐米大使と、対米交渉担当の来栖三郎遣米特命全権大使、に通称「ハル・ノート」(正式には:合衆国及日本国間協定ノ基礎概略/Outline of Proposed Basis for Agreement Between the United States and Japan)が手渡された(なお、これの草案を手掛けた財務次官補のハリー・デクスター・ホワイトは、第二次世界大戦後にソ連のスパイであることが判明し、1948年に自殺している)。, この中には、「最恵国待遇を基礎とする通商条約再締結のための交渉の開始」や「アメリカによる日本資産の凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結を解除」、「円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立」など、日本にとって有利な内容が含まれていたが、「仏印の領土主権尊重」や「日独伊三国同盟からの離脱」、日中戦争下にある「中国大陸(原文「China」)からの全面撤退」と言った譲歩を求める内容もあった。, この文章はあくまでハルの出した「基礎提案(Proposed Basis)」であり、その上に「厳秘、一時的にして拘束力なし(Strictly Confidential, Tentative and Without Commitment)」と明確に書かれてあったが[82]、内容的には日本側の要望はすべて無視したものであったことから、日本側は事実上の「最後通牒」と認識した。, そしてこの中にある日本側が最重要視する「満州国を含む全中国からの撤退」か、それとも「満州国を含まない全中国からの撤退」を求めているか否か、また実際に「最後通牒」か否かなど重要な点をハルをはじめ全くアメリカ側に対し明確にしないまま、12月1日の御前会議で日本政府は対英米蘭開戦を決定する。, そのような中で日本本土から比較的距離の近い対イギリスやオランダ植民地に対しても隠密裏に進軍を開始し、12月4日に三亜で作戦の全船団の出撃を確認した日本海軍の馬来部隊指揮官・小沢治三郎海軍中将は同地から出撃[83]。山下奉文陸軍中将以下約2万人の第二十五軍先遣兵団の乗船する輸送船も艦艇に護衛され、ついにイギリス領マレー半島とオランダ領東インドを目指して進撃を開始した。, 外務省はロンドンやシンガポール、マニラや香港などの日本大使館や領事館にはすでに1日に暗号機を廃棄するよう命じ、さらにワシントンD.C.の日本大使館に暗号機を1機残して廃棄を命じた上で、館員が残存文書を焼却した[84]。これに対してイギリスやアメリカ側は、日本の在外公館で機密文書の焼却を行っていることに気づいて報告したものもいたが、それは「イギリスやアメリカが攻撃することを恐れて日本側が機密文書の焼却を行っている」と、一方的に勘違いしているものであった。, この様に対英米蘭開戦を決定しながら、その裏ではマレー半島とハワイに向かう日本海軍機動部隊をいつでも反転できるようにしたまま、日本政府はぎりぎりまで来栖三郎と野村吉三郎の両大使にハルとの交渉を進めさせたが、ついに打開策は見つけらなかった。, 12月1日の御前会議で正式に対米戦争開戦が決まった際、昭和天皇は東条英機を呼んで「間違いなく開戦通告をおこなうように」と告げ、これを受けて東条英機は東郷茂徳外相に開戦通告をすべく指示し、外務省は開戦通告の準備に入った。東郷から駐米大使の野村吉三郎宛に、パープル暗号により暗号化された電報「昭和16年12月6日東郷大臣発野村大使宛公電第九〇一号」は、現地時間12月6日午前中に大使館に届けられた。この中では、対米覚書が決定されたことと、機密扱いの注意、手交できるよう用意しておくことが書かれていた。, 「昭和16年12月7日東郷大臣発在米野村大使宛公電第九〇二号」は「帝国政府ノ対米通牒覚書」本文で、14部に分割されていた。これは現地時間12月6日正午頃(以下はすべてアメリカ東海岸現地時間)から引き続き到着し、電信課員によって午後11時頃まで13分割目までの解読が終了していた。14分割目は午前3時の時点で到着しておらず電信課員は上司の指示で帰宅した。14分割目は7日午前7時までに到着したと見られる。, 九〇四号は機密保持の観点から「覚書の作成にタイピストを利用しないように」との注意があり、九〇七号では覚書手交を「貴地時間七日午后一時」とするようにとの指示が書かれていた。しかし、「タイピストを利用しないように」との注意に忠実に、解読が終わったものから順にタイプが不得意な一等書記官の奥村勝蔵により修正・清書され、その為に時間を浪費してしまう。その上に館員の多くは6日夜には、ブラジルへ赴任する館員の送別会も兼ねてワシントンD.C.市内の中華料理店「チャイニーズ・ランタン」に向かい、多くはそのまま自宅へ戻ってしまう。, さらに12月6日夜にルーズベルト大統領は昭和天皇に対する親書を送ったものの、親電は東京中央電信局で15時間留め置かれ、最終的に昭和天皇のもとに届いたのは開戦直前で手遅れであった[85]。, 12月7日の朝9時に大使館に出勤した電信課員は、午前10時頃に14分割目の解読作業を開始し、昼の12時30分頃に全文書の解読を終了した。14分割目も奥村により修正・清書され、そして現地時間午後2時20分に特命全権大使の来栖三郎と大使の野村吉三郎より、国務省において国務長官のコーデル・ハルに手交された。しかし、これはそもそも日本政府の設定した「手交指定時間」から1時間20分遅れで、日本陸軍のイギリス領マレー半島コタバル上陸の2時間50分後、日本海軍のアメリカのハワイの真珠湾攻撃の1時間後だった。そのためにその後アメリカ政府より、日本政府の宣戦布告の遅延が非難されることになる。, こうして日本はついに12月7日に、中華民国との戦いを続けながら、イギリス(オーストラリアやニュージーランド、英領マレーや同インドなども含む)、アメリカ(アメリカ領フィリピンなども含む)、オランダ(正式には植民地であるオランダ領東インド。なお本国はイギリスへ亡命)などとの間にも開戦することとなり、ここで、ヨーロッパ戦線やアフリカ戦線から、アジア戦線やアメリカ・太平洋戦線へと全世界に戦争範囲が広がり、まさに第二次世界大戦となる。, 1941年12月8日午前1時35分(日本標準時)、この時間に行われた日本陸軍とイギリス陸軍との戦い(マレー作戦)により、アジア太平洋戦線における戦闘開始かつアジアにおける戦闘が第二次世界大戦へ発展した。, 当初予期されたイギリス航空部隊の反撃はなく、イギリス海軍艦隊も認めない状況をかんがみ、小沢治三郎中将は予定通りの上陸を決意し、「予定どおり甲案により上陸決行、コタバルも同時上陸」の意図を山下奉文中将に伝えて同意を得て分進地点に到着すると、各部隊は予定上陸地点(コタバル方面、シンゴラ・パタニ方面、ナコン方面、バンドン・チュンポン方面、プラチャップ方面)に向かって解列分進した[86]。7日夜半、馬来部隊主隊および護衛隊本隊はコタバル沖80~100海里付近に達し、イギリス海軍艦隊の反撃に備えながら上陸作戦支援の態勢を整えた[87]。日本陸軍の佗美浩少将率いる第18師団佗美支隊が、淡路山丸、綾戸山丸、佐倉丸の3隻と護衛艦隊(軽巡川内旗艦の第3水雷戦隊)に分乗し、12月8日午前1時35分にタイ国境に近いイギリス領マレー半島北端のコタバルへ上陸作戦を開始した。, マレー上陸作戦で最も困難な任務を負ったコタバル上陸部隊の佗美支隊は、イギリス陸軍の水際陣地に苦戦し日没までにコタバル飛行場を占領する目標は達せられなかったが、800名以上の死傷者を出す激戦ののち、8日夜半占領に成功。9日午前にはコタバル市街に突入し、防戦一方のイギリス陸軍を急追して南進を続けた。また、陸軍の第三飛行集団は8日、9日、タナメラ、クワラベスト飛行場を攻撃し、両基地の占領に成功ししかも多くのイギリス軍の航空機の鹵獲に成功、コタバル周辺のイギリス航空部隊を一掃した[88]。, かねてからイギリス陸軍は国際情勢、特に日本との関係悪化を受けて、東南アジアにおける一大拠点であるマレー半島及びシンガポール方面の兵力増強を進めており、開戦時の兵力はイギリス兵19,600人、イギリス領インド帝国兵37,000人、オーストラリア軍15,200人、その他16,800人の合計88,600人に達していた。兵力数は日本陸軍の開戦時兵力の2倍であったが、イギリス軍やオーストラリア軍は訓練未了の部隊も多く戦力的には劣っていた。さらに軍の中核となるべきイギリス陸軍第18師団は、いまだイギリスより地中海を避けて喜望峰とインド洋を通りドイツ海軍の潜水艦攻撃を避け時間をかけて、マレー半島に輸送途上であった。, イギリス空軍については、開戦前に現地司令部から本国へ幾度も増強の要請がなされたが、ドイツ空軍に対して劣勢でその対応だけで手一杯であった本国は、本土防衛(バトル・オブ・ブリテン)に手いっぱいであり、遠くマレー半島の空軍増強の要請に対応できなかった上、上記のように陸軍と同じくドイツ海軍の潜水艦攻撃を避けてシンガポールなどマレー半島への運搬に時間がかかったため、開戦当時のマレー半島のイギリス空軍の中心は、ブルースター・F2Aバッファローやブリストル ブレニムなどの、当時としても二線級機とならざるを得なかった。, さらに、日本軍に対する技術研究が不十分なイギリス空軍は「ロールス・ロイスとダットサンの戦争だ」と、人種的な偏見からも日本軍の航空部隊を見くびっていたために、日本軍の零式艦上戦闘機や一式陸上攻撃機、九六式陸上攻撃機などの新鋭機に、よく訓練された飛行士による攻撃に総崩れとなった。, また同日に日本陸軍は、イギリス領のシンガポールと並ぶ極東植民地の要の香港攻撃を開始したほか、中華民国の上海のイギリスやアメリカ租界を瞬く間に占領した。日本に占領されたものの、イギリスやアメリカ、オランダやオーストリア、デンマークやフランスなど連合国の職員と評議員は、その職から解任されたにもかかわらず、1943年に日本陸軍に抑留されるまで職の管理存続に動いていた。, 日本軍のイギリス軍に対するマレー半島上陸開始の約1時間半後、山本五十六大将指揮の元、6隻の航空母艦から発進した日本海軍機による当時のアメリカ自治領ハワイ、真珠湾のアメリカ海軍太平洋艦隊に対する攻撃(真珠湾攻撃)が行われた。日本海軍は当時世界最大の空母機動部隊であった。, 前日12月6日の夜には「日本軍の2個船団をカンボジア沖で発見した」というイギリス軍からもたらされた情報が、アメリカ海軍のハズバンド・キンメル大将とウォルター・ショート中将にも届いた。キンメルは太平洋艦隊幕僚と真珠湾にある艦船をどうするかについて協議したが、空母を全て出港させてしまったため、艦隊を空母の援護なしで外洋に出すのは危険という意見で一致したのと、週末に多くの艦船を出港させるとハワイ市民に不安を抱かせると判断し、真珠湾に艦隊をそのまま在港させることとした。, また同日、パープル暗号により、東京からワシントンの日本大使館に『帝国政府ノ対米通牒覚書』が送信された。パープル暗号はすでにアメリカ側に解読されており、その電信を傍受したアメリカ陸軍諜報部は、その日の夕方にルーズベルト大統領に翻訳文を提出したが、それを読み終わるとルーズベルトは「これは戦争を意味している」と叫んだ。しかしこの覚書にはハワイを攻撃するとか、具体的な攻撃計画についてのヒントはまったくなかった。しかし、午後1時に覚書をハル国務長官に手渡した後にすべての暗号機を破壊せよとの指令も付されており、攻撃時間を連想されるものであったが、その「ワシントン時間午後1時」が、「ハワイ時間7時30分」であることを思いつく者はいなかった。さらに結果的に日本陸軍のマレー上陸の報が、イギリス軍からハワイに展開するアメリカ軍に伝達されるのはコタバルへの攻撃開始のはるか後の事になり、その結果真珠湾並びにアメリカ領フィリピンを含む太平洋地域のアメリカ軍の迎撃体制のゆるみに影響することはなかった。, 現地時間の7時10分に日本軍の小型潜水艇がオアフ島に近づいたことで、たまたまアメリカ海軍の駆逐艦「ワード」から攻撃を受けたが(ワード号事件)、ハワイ周辺海域では漁船などに対する誤射がしばしばあったことからその重要性は認識されなかった。また、その直後には哨戒機が湾口1マイル沖で潜水艦を発見し爆雷攻撃を行ったという報告もなされたが、その報告を聞いた海軍参謀らはワードからの報告も含めて長々と議論するばかりで結論を出すことができず、陸軍に連絡することすらしなかったため、陸軍は警戒態勢の強化を図ることができなかった。さらに、これが大規模な日本海軍の攻撃開始とは気づかなかった真珠湾のアメリカ海軍の将兵の殆どが、日米間の緊張した状況を知らされず、ほとんどが演習だと信じ込んでいた。, 日本海軍の最初の魚雷は8時前に「ウエストバージニア」に命中し、8時過ぎ、加賀飛行隊の九七式艦上攻撃機が投下した800kg爆弾がアリゾナの四番砲塔側面に命中した。以降は日本海軍機は一方的な攻撃を展開し、9時前には第2次攻撃も開始し、「アリゾナ」や「オクラホマ」など戦艦4隻沈没、戦艦1隻大破、戦艦1隻中破、軽巡洋艦2隻大破、駆逐艦3隻大破、ボーイングB-17など航空機328機破壊をはじめ2,400人以上の死者を出し、これに対しわずか29機の未帰還機と特殊潜水艇5隻の未帰還で終えた。, その結果、オアフ島に本拠地を置くアメリカ太平洋艦隊の戦艦部隊は戦闘能力を一時的に完全に喪失するなど、アメリカ軍艦隊に大打撃を与えて、側面から南方作戦を援護するという[89] 作戦目的を達成した[90]。なお激しい戦闘の最中に、ホノルル港に停泊していたオランダ海軍の「ヤーヘルスフォンテイン」が日本軍機に向けて搭載している対空砲の射撃を行い、大東亜戦争において最初のアメリカ軍の友軍の参戦となった[91]。, なお、アメリカ太平洋艦隊をほぼ壊滅させたものの、とどめを刺す第3次攻撃隊を送らず、オアフ島の燃料タンクや港湾設備を徹底的に破壊しなかったこと、攻撃当時アメリカ空母が出港中で、空母と艦載機を同時に破壊できなかったことが、後の戦況に影響を及ぼすことになる。なお、当時日本軍は短期間で勝利を重ね、有利な状況下でアメリカ軍をはじめ連合軍と停戦に持ち込むことを画策。そのため、軍事的負担が大きくしかも戦略的意味が薄い、という理由でハワイへの上陸は考えていなかった。しかし、ルーズベルト大統領以下当時のアメリカ政府首脳は、日本軍のハワイ上陸を危惧し、ハワイ駐留軍の本土への撤退とハワイのアメリカ利権の廃棄を想定し、早くも日本軍の上陸を見通して、「HAWAII」の印の入った、ハワイのみで流通する特別なドル紙幣が使われることとなった。さらに、7日昼にはサンフランシスコなどアメリカ西海岸に非常事態宣言が出された上、実際ルーズベルト大統領は日本海軍空母部隊によるアメリカ本土西海岸への空襲の後に、アメリカ本土侵攻の可能性が高い、と分析していた。, また、日本が日米交渉の一方で戦争準備をすすめていたこと、さらに宣戦布告の遅延があったことは、後世「卑劣なだまし討ち」とその後長年に渡ってアメリカ政府によって喧伝されることとなったが、アメリカもレンド・リース法でイギリスやオーストラリア、中華民国に武器を与えていたことや、自国も米比戦争やシベリア出兵、第二次世界大戦以後もベトナム戦争などで宣戦布告なく戦争を行っていたこと、さらに当時は宣戦布告が行われないのが一般的な流れであった。なお、先に開戦したイギリスに対しては宣戦布告が行われなかったうえ、1939年9月のドイツとソ連のポーランド攻撃も完全に宣戦布告が行われなかったが、このように喧伝されることは無かった[注釈 9]。, かねてよりイギリスの後押しもあり参戦の機会を窺っていたアメリカは、真珠湾攻撃を理由に連合軍の一員として正式に第二次世界大戦に参戦した。また、既に日本と日中戦争(支那事変)で戦争状態の中華民国は12月9日、日独伊に対し正式に宣戦布告(詳細は「日中戦争」の項を参照)。なお、満洲国や中華民国南京国民政府[注釈 10] も、日本と歩調を合わせて連合国に対し宣戦布告した。しかしアメリカは瞬く間にグアムやアッツ島、フィリピンを失い、その上に本土の爆撃や砲撃を受けるなど敗走を続けることになる。, 12月10日、日本海軍双発爆撃機隊(九六式陸上攻撃機と一式陸上攻撃機)の巧みな攻撃により、当時世界最強の海軍を自認していたイギリス海軍東洋艦隊の、当時最新鋭の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを一挙に撃沈した(マレー沖海戦)。これは史上初の航空機の攻撃のみによる行動中の戦艦の撃沈であり、この成功はその後の世界各国の戦術に大きな影響を与えた。, なお、当時のイギリス首相のチャーチルは後に「第二次世界大戦中にイギリスが最も大きな衝撃を受けた敗北だ」と語った。また議会に対して「イギリス海軍始って以来の悲しむべき事件がおこった」と報告した[92]。戦闘の数日後、第二次攻撃隊長だった壱岐春記海軍大尉は、部下中隊を率いてアナンバス諸島電信所爆撃へ向かう[93]。途中、両艦の沈没した海域を通過し、機上から沈没現場の海面に花束を投下して日英両軍の戦死者に対し敬意を表した[94][95]。, この海戦の結果、インド洋に進出していたイギリス東洋艦隊の大部分が日本軍の航空攻撃を警戒し、マレー方面進出を断念したためマレー作戦は順調に進行した。コタバルへ上陸した日本陸軍は、極東におけるイギリス軍の最大の拠点であるシンガポールを目指し半島を南下、突然の日本陸軍の急襲にイギリス軍は敗走を続けた[96]。, 日本陸海軍機がアメリカの植民地のフィリピンのアメリカ軍基地を攻撃し、12月10日には日本陸軍がアメリカ軍最大の基地があるルソン島へ上陸。さらに太平洋のアメリカ領グアム島も占領。なおグアムにおける戦闘は1日で終結し、死傷者の合計は日本側が戦死者1名・負傷者6名、アメリカ側が戦死者36もしくは50名、負傷者80名を数えていた。捕虜となったアメリカ兵は、アメリカ人と地元住民あわせて650名であった。, 12月11日には、日本の対連合国へ宣戦を受け、日本の同盟国ドイツ、イタリアもアメリカへ宣戦布告。これにより、戦争は名実ともに世界大戦としての広がりを持つものとなった。, なおこの年にイタリア紅海艦隊の残存艦の「エリトレア」と「ラム2」が、スエズ運河が閉鎖されたために来日し、やむなく神戸港に停泊していたが、11日にイタリアもアメリカに宣戦布告したために、この2隻も天津に拠点を置くイタリア極東艦隊の一員となり、これらイタリア極東艦隊は日本や満州国の船団護衛の補給作業や、天津と日本、東南アジアとの間の輸送にも担当し大活躍した。, 12月8日にイギリス領香港攻撃を開始した日本陸軍は、ストーンカッター海軍基地などがある中心の九龍半島の攻略に数週間を見込んでいたが、準備不足のイギリス軍は城門貯水池の防衛線を簡単に突破され九龍半島から撤退した。さらに12日から攻撃を開始した香港島は、イギリス軍は頑強に抵抗し日本軍にも多くの死者を出したものの、貯水池を占拠され25日に降伏。日本陸軍は香港一帯を占領した(香港の戦い)。, 捕虜となったイギリス軍は11,000名。内訳はイギリス人が5,000名、インド人が4,000名、カナダ人が2,000名であった。日本陸軍はわずか18日間で香港攻略を完了し、東南アジア戦線における日本軍の優位が完全に確定した。しかし日本軍は、香港に隣接するポルトガル植民地マカオと、同じくポルトガル植民地の東ティモールには、中立国植民地を理由に侵攻せず、結局終戦まで進攻は行わなかった[注釈 11]。, 12月23日には同じくアメリカ軍の基地があるウェーク島も占領した。この様な状況下で、日本海軍は真珠湾攻撃の援護を行っていた巡潜乙型潜水艦計9隻(伊9、伊10、伊15、伊17、伊19、伊21、伊23、伊25、伊26[97]。10隻との記録もある)を、太平洋のアメリカとカナダ、メキシコなどの西海岸に展開し、12月20日頃より連合国、特にアメリカやカナダに対する通商破壊戦を展開し、中でも商船やタンカーなどを沿岸の住人が見れるほどの距離で砲撃、撃沈し、西海岸の住人を恐怖のどん底においた[98]。, さらにはカリフォルニア州を中心としたアメリカ本土攻撃を計画し、太平洋のアメリカ沿岸地域に展開していた日本海軍の潜水艦10隻が、一斉にアメリカ西海岸沿岸の海軍基地のあるサンディエゴやモントレー、ユーレカやアストリアなど、アメリカ西海岸の複数の都市の軍事施設するという作戦計画があった。しかし、「クリスマス前後に砲撃を行い民間人に死者を出した場合、アメリカ国民を過度に刺激するので止めるように」との指令が出たため中止になった。なお、この日本海軍本部の砲撃中止指令に至る理由は諸説ある[99]。, 東南アジア唯一の独立国だったタイ王国は、当初は中立を宣言していたが12月21日、日本との間に日泰攻守同盟条約を締結し、事実上枢軸国の一国となったことで、この年の1月8日からイギリス軍やアメリカ軍がバンコクなど都市部への攻撃を開始。これを受けてタイ王国は1月25日にイギリスとアメリカに宣戦布告した。また日本が進出した仏領インドシナでは、従前のヴィシー政権による植民地統治が日本によって認められ、軍事面では日仏の共同警備の体制が続いた。情報交換や掃海作業などでは両軍で協力が行われている[100]。, 1月に日本は、母国をドイツとの戦いに敗れ失ったオランダの亡命及び植民地政府とも開戦し、ボルネオ(現カリマンタン)島[注釈 12]、ジャワ島とスマトラ島[注釈 13] などにおいて、日本1国でイギリス、アメリカ、オランダ、オーストラリア、ニュージーランドなど連合軍に対する戦いで勝利を収めた。なお1月30日には、オランダ領東インド・西ティモール沖の戦闘区域で、カンタス航空のショートエンパイア機が日本海軍機に撃墜され、乗客乗員13名が死亡する事件がおきている。なおこれは、同社によって2019年までで最大の死亡者が出た事故となっている。, 日本海軍は、2月に行われたジャワ沖海戦でオランダ海軍とアメリカ海軍を中心とする連合軍諸国の艦隊を撃破する。この海戦後も日本軍の進撃は止まらなかった。2月8日にマカッサル[101]、2月10日-11日にバンゼルマシンに上陸しこれを攻略した[102]。続くスラバヤ沖海戦では、連合国海軍の巡洋艦が7隻撃沈されたのに対し、日本海軍側の損失は皆無と圧勝した。この様な中でオランダ軍は同月、1940年5月の独蘭開戦後にスマトラ島で捕え、イギリス領インド帝国に輸送しようとした際にドイツ人収容者数百人を死亡するという「ファン・イムホフ号事件」が発生している。, 日本軍は9日にセランゴールを占領、11日午前12時にクアラルンプールの外港の背後にあるクランを占領し、クアラルンプールから海上への退路を遮断した[103]。イギリス軍はクアラルンプール付近で抵抗を企図していたが、日本の迅速な進撃により組織的抵抗の余裕を失い、1月10日に飛行場、停車場を自ら爆破し、11日にはほぼその撤退を完了していた[104]。, ジョホールに迫った日本軍は同地を陥落させ、イギリスの東南アジアにおける最大の拠点シンガポールに迫り、2月4日朝に軍砲兵隊は射撃準備を終え以後逐次射撃を開始し、シンガポールに対する攻撃は軍砲兵の攻撃準備射撃で始まった[105]。8日に日本軍は軍主力のジョホール・バルの渡航開始[106]。11日朝、第25軍司令官はイギリス軍司令官に対し降伏勧告文を通信筒で飛行機から投下させた[107]。しかしイギリス軍の最後の軍の抵抗はシンガポール市街の周辺でにわかに強化され、日本の弾薬は欠乏したが、15日午後にアーサー・パーシヴァル中将は山下奉文中将に降伏した[108]。, 日本陸軍第25軍の発表では、2月末日までに判明したシンガポール攻略作戦間の戦果と損害は、イギリス軍捕虜が約10万人、約5,000名が戦死し、同数が戦傷した[109]。日本の戦死1,713名、戦傷3,378名[110] に上った。陥落後シンガポールを日本は「昭南」と改名し、陸海軍基地を構え以降終戦まで占領下に置いた。, 2月19日には、4隻の日本航空母艦(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)はオーストラリア北西のチモール海の洋上から計188機を発進させ、オーストラリアへの空襲を行った。これらの188機の日本海軍艦載機は、オーストラリア北部のポート・ダーウィンに甚大な被害を与え9隻の船舶が沈没した。同日午後に54機の陸上攻撃機によって実施された空襲は、街と王立オーストラリア空軍(RAAF)のダーウィン基地にさらなる被害を与え、20機の軍用機が破壊された。, 2月24日に、日本海軍伊号第十七潜水艦が、アメリカ西海岸カリフォルニア州・サンタバーバラ市近郊エルウッドの製油所を砲撃。製油所の施設を破壊した。これで対米戦においては、先に日本がアメリカの本土を攻撃することとなり、アメリカ全土を恐怖に陥らせることになった。日本は他にもカナダとメキシコまでの10隻にわたる潜水艦で、広範囲で潜水艦による通商破壊戦を繰り広げた。アメリカ政府および軍は本土への日本軍上陸を危惧し、西海岸で防空壕の準備を進めたほか、学徒疎開などの準備を急ピッチで進めたが、日本軍側にはその意図はなかった。, 翌日未明には、ロサンゼルス近郊においてアメリカ陸軍が、日本軍の航空機の襲来を誤認し多数の対空射撃を行い6人の民間人が死亡するという「ロサンゼルスの戦い」が発生した。この事件に関してアメリカ海軍は「日本軍の航空機が進入した事実は無かった」と発表したが、一般市民は「日本軍の真珠湾攻撃は怠慢なアメリカ海軍の失態」であるとし、過剰なほどの陸軍の対応を支持するほどであった。しかし、これらアメリカ本土攻撃がもたらした日本軍上陸に対するアメリカ政府の恐怖心と、無知による人種差別的感情が、日系人の強制収容の本格化に繋がったとも言われる。, また、まもなくジャワ島に上陸した日本軍は疲弊したオランダ軍を制圧し同島全域を占領。10日ほどの戦闘の後、在オランダの東インド植民地軍は全面降伏し、オランダ人の一部はオーストラリアなどの近隣の連合国に逃亡し、残りは日本軍に捕えられた。これ以後、東インド全域は日本の軍政下に置かれ「オランダによる350年の東インド支配」が実質的に終了した。3月のバタビア沖海戦でも日本海軍は圧勝した。日本陸軍も3月8日、イギリス植民地ビルマ(現在のミャンマー)首都ラングーン(現在のヤンゴン)を占領。連合国は連戦連敗により、アジア地域のイギリス、アメリカ、オランダの連合軍艦隊はほぼ壊滅した。, 日本海軍航空母艦を中心とした機動艦隊はインド洋に進出し、空母搭載機がイギリス領セイロン[注釈 14] のコロンボ、トリンコマリーを空襲、さらに4月5日から9日にかけてイギリス海軍の航空母艦ハーミーズ、重巡洋艦コーンウォール、ドーセットシャーなどに攻撃を加え多数の艦船を撃沈した(セイロン沖海戦)。, イギリス艦隊は、日本海軍機動部隊に反撃ができず、当時植民地だったアフリカ東岸ケニアのキリンディニ港まで撤退した。なお、この攻撃に加わった潜水艦の一隻である伊号第三十潜水艦は、その後8月に戦争開始後初の遣独潜水艦作戦(第一次遣独潜水艦)としてドイツ[注釈 15] へと派遣され、エニグマ暗号機などを持ち帰った。, フィリピンの日本軍は、4月9日にバターン半島を攻略、アメリカ軍の大量の捕虜を獲得したが、多数の死傷者を出したバターン死の行進事件が発生している。もはや日本軍に追い込まれ、食料も銃弾も尽きていたバターンの兵士すべてが病人となったと言っても過言ではなかったが、マッカーサーの司令部は嘘の勝利の情報をアメリカのマスコミに流し続けた[111]。, マッカーサーは嘘の公式発表をするのと並行して脱出の準備を進めており、コレヒドールにはアメリカ海軍の潜水艦が少量の食糧と弾薬を運んできた帰りに、大量の傷病者を脱出させることもなく金や銀を運び出していた[112]。5月6日にアメリカ軍のコレヒドール要塞を制圧したが、日本軍がコレヒドール島を攻略したとき、極東陸軍司令官ダグラス・マッカーサーの姿はすでになかった。3月12日にマッカーサーと家族や幕僚たちは、魚雷艇とボーイングB-17でコレヒドール島を脱出しミンダナオ島経由でオーストラリアへ逃亡した。, 4月18日にはアメリカ海軍は、アメリカ西海岸攻撃の仕返しに、空母ホーネットから発進したアメリカ陸軍の双発爆撃機ノースアメリカン B-25による東京空襲(ドーリットル空襲)を実施、損害は少なかったものの日本の軍部に衝撃を与えたが、これ以降の日本空襲は2年半皆無であった。, 5月7日、8日の珊瑚海海戦では、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍の空母機動部隊が、歴史上初めて航空母艦の艦載機同士のみの戦闘を交えた。この海戦でアメリカ軍は大型空母レキシントンを失ったが、日本軍も小型空母祥鳳を失い、大型空母翔鶴も損傷した。この結果、日本軍はニューギニア南部、ポートモレスビーへの海路からの攻略作戦を中止。陸路からのポートモレスビー攻略作戦を目指すが、オーウェンスタンレー山脈越えの作戦は困難を極め失敗する。海軍上層部は、アメリカ海軍機動部隊を制圧するため中部太平洋のミッドウェー島攻略を決定する。しかし、アメリカ側は暗号伝聞の解読により日本海軍の動きを察知しており、防御を整えていた。, 日本軍は第二段作戦として、アメリカとオーストラリア間のシーレーンを遮断し、オーストラリアを孤立させる「米豪遮断作戦」(FS作戦)を構想した。5月31日には、オーストラリアのシドニー港に停泊していた連合国艦隊に向けて、日本海軍の特殊潜航艇によるシドニー港攻撃が行われた。, 伊24搭載艇は港内に在泊していたアメリカ海軍の重巡洋艦シカゴを発見し魚雷を2発発射した。2発とも外れたと見えたが、岸壁に係留されていたオーストラリア海軍の宿泊艦クッタブルの艦底を通過して岸壁に当たって爆発した。これによりクッタブルは沈没し19名が戦死した。また、その隣に係留されていたオランダ海軍の潜水艦K IXも爆発の衝撃で損傷した。なおこの時に難を逃れたアメリカ海軍のシカゴは、1943年に日本軍に撃沈されている。, イギリス軍は、敵対する親独フランス・ヴィシー政権の植民地である南アフリカ沿岸のマダガスカル島を、日本海軍の基地になる危険性があったため、南アフリカ軍の支援を受けて占領した(マダガスカルの戦い)。これに対抗するべくドイツ海軍からの依頼を受け、日本軍の潜水艦は伊30が1942年4月22日に、伊10と甲標的を搭載した伊16、伊18、伊20が1942年4月30日にペナンを出撃し[113]、南アフリカのダーバン港のほか、北方のモンバサ港、ダルエスサラーム港、そしてディエゴ・スアレス港への攻撃を検討した。, その結果、5月30日から6月4日にかけて、搭載した特殊潜航艇がディエゴスアレス港を攻撃し、攻撃によりイギリス海軍の戦艦ラミリーズに魚雷1本、油槽船ブリティッシュ・ロイヤルティ(British Loyalty、6,993トン)に魚雷1本が命中し、ブリティッシュ・ロイヤルティは撃沈された[注釈 16][114]。, さらに、南アフリカ沿岸のマダガスカル島に上陸した特殊潜航艇の艇長の秋枝三郎大尉(海兵66期)と艇付の竹本正巳一等兵曹の2名が、6月4日にイギリス軍と陸戦を行い、両名はイギリス軍による降伏勧告を拒否し、15人のイギリス軍部隊を相手に軍刀と拳銃で戦いを挑みイギリス軍兵士を死傷させるなどの戦果をあげている。, 日本海軍によるマダガスカル方面への攻撃は、戦艦1隻大破、大型輸送船1隻撃沈。地上戦でイギリス軍兵士1名の死者と5人に重軽傷を負わせるなど一定の戦果を挙げたが、先に実施されたセイロン沖海戦における勝利によりイギリス海軍をインド洋東部から放逐し東南アフリカ沿岸まで追いやるなど、この時点における最大の目的を達成していた日本海軍にとって、マダガスカル方面は主戦場から遠く離れており、また友邦のドイツ軍もいなかったことから、これ以上の目立った作戦行動は行われなかった。, 日本海軍は、同年6月3日から行われたアリューシャン群島西部要地の攻略又は破壊を目的として行われたAL作戦で、アメリカ軍のアラスカのダッチハーバーへの空母「龍驤」「隼鷹」を主力とする航空隊による空襲を行い、大きな被害を出すことに成功した。また6月6日には、アリューシャン群島のアッツ島に北海支隊1,200人が上陸したが、同島に敵の守備隊は存在せず特段反撃を受けることもなく占領に成功する。, これは第二次世界大戦においてアメリカ本土に日本軍を含む枢軸国軍が上陸、占領した初めてのことで、続いて7日にキスカ島に第三特別陸戦隊550名、設営隊750名が上陸し、同島も守備隊は存在せず占領に成功する。日本軍にとってキスカ島、アッツ島上陸は戦略的には重要ではなく、実際に占領後も少ない守備隊しか置かなかったが、アメリカ軍にとっては自国の本土を取られた屈辱の日となった。, 6月4日 - 6日にかけてのミッドウェー海戦では、日本海軍機動部隊は偵察の失敗や判断ミスが重なり、主力正規空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を一挙に失った(アメリカ海軍機動部隊は正規空母1隻(ヨークタウン)を損失)。加えて300機以上の艦載機と多くの熟練パイロットも失った。この海戦は太平洋戦線で初の日本海軍の敗北となったが、この後も海戦での敗北やアメリカ本土空襲、本土砲撃を受けるなど、アメリカ軍の敗北と後退はまだまだ続いた。また、この海戦後日本海軍保有の正規空母は瑞鶴、翔鶴のみとなったが、上記のように水上機母艦を改装した空母がその穴を補った。, 6月20日には乙型潜水艦の「伊号第二十六潜水艦」が、カナダのバンクーバー島太平洋岸にあるカナダ軍の無線羅針局を14センチ砲で砲撃した。この攻撃は無人の森林に数発の砲弾が着弾したのみで大きな被害を与えることはなかった, 翌21日には「伊号第二十五潜水艦」がオレゴン州アストリア市のフォート・スティーブンス陸軍基地へ行った砲撃では、突然の攻撃を受けたフォート・スティーブンスはパニックに陥り、「伊二十五」に対して何の反撃も行えなかった(フォート・スティーブンス砲撃)。当初は、アストリア市街も攻撃目標に含んでいたものの、コロンビア川の河口を入ったところにあるアストリア市街へ砲撃は届かなかった。その後、訓練飛行中だった航空機が伊25を発見し、まもなく通報を受けたA-29ハドソン攻撃機が出撃している。ハドソン攻撃機は伊25に対する爆撃を行ったものの、損傷を与えることはできなかった[115]。この攻撃も大きな被害を与えることはなかったものの、アメリカ本土にあるアメリカ軍基地への攻撃としては米英戦争以来、130年ぶりのものであった。, 6月には、イタリア軍の大型輸送機の「サヴォイア・マルケッティ SM.75 GA RT」により、イタリアと日本、もしくは日本の占領地域との飛行を行うことを計画した。6月29日にグイドーニア・モンテチェーリオからイタリアと離陸後戦争状態にあったソビエト連邦を避けて、ドイツ占領下のウクライナのザポリージャ、アラル海北岸、バイカル湖の縁、タルバガタイ山脈を通過しゴビ砂漠上空、モンゴル上空を経由し、6月30日に日本占領下の内モンゴル、包頭に到着した。しかしその際に燃料不足などにより、ソビエト連邦上空を通過してしまい銃撃を受けてしまう。その後東京へ向かい7月3日から7月16日まで滞在し、7月18日包頭を離陸してウクライナのオデッサを経由してグイドーニア・モンテチェーリオまで機体を飛行させ、7月20日にこの任務を完遂した。, しかし、日本にとって中立国の(イタリアにとっての対戦国)ソビエト連邦上空を飛ぶという外交上の理由によって、滞在するアントニオ・モスカテッリ中佐以下の存在を全く外部に知らせないなど、日本では歓迎とは言えない待遇であった。また、事前に日本側が要請していた、辻政信陸軍中佐を帰路に同行させないというおまけもついた。しかも、案件の不同意にも関わらずイタリアは8月2日にこの出来事を公表し、2国間の関係は冷え冷えとしたものになり、イタリアは再びこの長距離飛行を行おうとはしなかった[116]。, なお、開戦後両陣営において、開戦により交戦国や断交国に残された外交官や民間人(企業の駐在員や宗教関係者、研究者、留学生とそれらに帯同した家族などの一時在住者)の帰国方法が問題になった。そのご1942年5月に両陣営の間で残留外交官と残留民間人の交換に関する協定が結ばれ、日本(とその占領地と植民地、ならびに満州国やタイなどその同盟国)とアメリカ(とブラジルやカナダなどその近隣の同盟国)の間についてはこの年の6月と1943年9月の2回、日本とイギリス(とその植民地、ならびにオーストラリアやニュージーランドなどのイギリス連邦諸国)との間については1942年8月の1回、合計3回の交換船が運航されることになった。, また開戦以降、ドイツ側は生ゴムや錫、モリブデン、ボーキサイト等の軍用車両・航空機生産に必要な原材料を入手するために海上封鎖突破船をインド洋経由で日本の占領する東南アジア方面に送ったが、太平洋のアフリカ沿岸を拠点に活動するイギリス海軍や南アフリカ連邦軍の妨害に遭うことが多くなり、作戦に支障をきたすことが多くなった。, そこでドイツ側は酸素魚雷や無気泡発射管、水上飛行艇などの最新の軍事技術情報を日本から、日本側からもウルツブルク・レーダー技術、ジェットエンジン、ロケットエンジン、暗号機等の最新の軍事技術情報をドイツから入手したいという思惑があり、両国の利害が一致し、ここに日本とドイツの間を潜水艦で連絡するという計画が実行に移されることとなった。遣独潜水艦作戦の1回目として、伊号第三十潜水艦が8月6日にフランスのロリアンに入港した。2回目は駐独大使館付海軍武官横井忠雄海軍少将が便乗帰国するなど、その5回にわたり行われた。, 8月7日、アメリカ海軍は最初の反攻として、ソロモン諸島のツラギ島およびガダルカナル島に上陸、完成間近であった飛行場を占領した。これ以来、ガダルカナル島の奪回を目指す日本軍とアメリカ軍の間で、陸・海・空の全てにおいて一大消耗戦を繰り広げることとなった(ガダルカナル島の戦い)。さらに同月に行われた第一次ソロモン海戦では、日本軍は日本海軍の攻撃でアメリカとオーストラリア軍の重巡4隻を撃沈して勝利する。, 9月9日と29日には、日本海軍の伊十五型潜水艦「伊二十五」の潜水艦搭載偵察機零式小型水上偵察機がアメリカ西海岸のオレゴン州を2度にわたり空襲、火災を発生させるなどの被害を与えた(アメリカ本土空襲)。この空襲は、現在に至るまでアメリカ合衆国本土に対する唯一の外国軍機による空襲となっている。日本軍によりアッツ島の本土上陸に続く、相次ぐ敗北に意気消沈する国民に精神的ダメージを与えないためにアメリカ政府は、ラジオや新聞などのマスコミに徹底的な緘口令(情報操作)を敷き、日本軍の本土爆撃があった事実を国民に対しひた隠しにする。, その後、第二次ソロモン海戦で日本海軍は空母龍驤を失い敗北したものの、10月に行われた南太平洋海戦では、日本海軍機動部隊がアメリカ海軍の空母ホーネットを撃沈、エンタープライズを大破、駆逐艦ポーターを撃沈するなど大勝した。先立ってサラトガが大破、9月にワスプを日本潜水艦の雷撃によって失っていたアメリカ海軍は、太平洋戦線での稼動正規空母が0という危機的状況へ陥った。, 日本海軍は瑞鶴以下5隻の稼動可能正規空母を有し、数の上では圧倒的優位な立場に立ったが、度重なる海戦で熟練搭乗員が消耗し、しかも連合軍の敗北に次ぐ敗北で予想以上に補給線が延びきったことにより、新たな攻勢に打って出る事ができなかった。その後11月に行われた第三次ソロモン海戦で、日本海軍は戦艦2隻を失ったが、アメリカ軍とオーストラリア軍も2隻の巡洋艦と7隻もの駆逐艦を失うなど大きな痛手を負い、さらに上記のように連合国の太平洋戦線での稼動正規空母が皆無という厳しい立場にあった。, 日本軍の攻勢は各地でその後も続き、この年の2月より日本海軍機により実施されていたオーストラリア北部のダーウィンやケアンズなどのオーストラリア軍基地などへ対しての空襲は、冬になってもその勢いはとどまらず行われ、同地のオーストラリア空軍並びに連合国の基地、政府の建物に大きな被害を出しており、最終的に日本軍によるオーストラリア空襲は1943年11月まで続いた。またインド洋一帯から日本軍の勢いを恐れたイギリス海軍をほぼ完全に放逐し、連合国軍船舶が日本海軍艦船を避けて大幅に航路をに変更するなど、その勢いは全く落ちてはいなかった。, 昨年暮れより行われていた「第一次アキャブ作戦」で、ビルマ方面ではインド師団を中心としたイギリス軍が反抗を試み、日本軍が占領したビルマ南西部のアキャブ(現在のシットウェー)の奪回を目指すとともに、「チンディット」部隊(いわゆるウィンゲート旅団)によりビルマ北部への進入作戦を試みた。しかしイギリス軍インド師団は数にも質にも勝る日本陸軍に包囲されて大損害を受け敗北し、3月には作戦開始地点まで撤退することを余儀なくされた。さらに日本側はイギリス軍の戦車、装甲車40両及び自動車73両の捕獲に成功した。, またこの年に入っても、オーストラリア北部に対する日本軍の空襲や機銃掃射などの攻撃は優勢なまま継続され、1月22日にはヴェッセル諸島近海でオーストラリア海軍掃海艇「パトリシア・キャム」を撃沈した他、ダーウィンの燃料タンクを空襲で破壊するなどの戦果を挙げた。さらに1月29日に日本海軍はソロモン諸島のレンネル島沖海戦で、特殊潜航艇によるシドニー港攻撃で打ち損ねたアメリカ海軍の重巡洋艦「シカゴ」を撃沈するという大きな戦果を挙げたが、2月に日本陸軍はガダルカナル島から撤退(ケ号作戦)した。半年にも及ぶ消耗戦により、日本軍と連合国軍の両軍に大きな損害が生じた。, 前年にラース・ビハーリー・ボースを指導者とするインド独立連盟(英語版)が昭南で設立された。連盟の指揮下にはイギリス領マラヤや昭南、香港などで捕虜になった英印軍のインド兵を中心に結成されていたインド国民軍が指揮下に入ったが、インド独立宣言の早期実現を主張する国民軍司令官モハン・シン(英語版)と、時期尚早であると考えていた日本軍、そして日本軍の意向を受けたビハーリー・ボースとの軋轢が強まっていた[117]。前年11月20日にモハン・シンは解任され、ビハーリー・ボースの体調も悪化したことで、日本軍はインド国民軍指導の後継者をもとめるようになった。, 国内外に知られた独立運動家であり、ドイツにいたスバス・チャンドラ・ボースはまさにうってつけの人物であり、またビハーリー・ボースとともに行動していたインド独立連盟幹部のA.M.ナイルもボースを後継者として招へいすることを進言した。しかし陸路、海路、空路ともに戦争状態にあり、イギリスの植民地下にあるインド人が移動するには困難が多かったため、日独両政府はボースの移送のための協議を行った。, その結果、空路よりは潜水艦での移動のほうが安全であると結論が出て、2月8日に、チャンドラ・ボースと側近アディド・ハサン(英語版)の乗り込んだドイツ海軍のUボート U180はフランス大西洋岸のブレストを出航した。4月26日に、アフリカのマダガスカル島東南沖[118]でU180と日本海軍の伊号第二九潜水艦が会合し、翌4月27日に日本潜水艦に乗り込んだ[119]。5月6日、潜水艦はスマトラ島北端に位置し海軍特別根拠地隊指揮下のサバン島(ウエ島)サバン港に到着した。, 3月より「ラジオ・トウキョウ放送」で、連合国軍向けプロパガンダ放送「ゼロ・アワー」が開始された。音楽と語りを中心に、アメリカ人捕虜が連合国軍兵士に向けて呼びかけるというスタイルを基本とした。英語を話す女性アナウンサーは複数存在したが、いずれも本名が放送されることはなく愛称もつけられていなかった[120]。放送を聴いていたアメリカ軍兵士たちは声の主に「東京ローズ」の愛称を付け[120]、その後太平洋前線のアメリカ軍兵士らに評判となった。同様の放送「日の丸アワー」も同年12月より行われた。, 4月7日から15日に、日本軍はガダルカナル島やニューギニア島南東部のポートモレスビー、オロ湾、ミルン湾に対して空襲を行う「い号作戦」を行った。この作戦は日本海軍の連合艦隊司令長官の山本五十六海軍大将自ら指揮し、自らはわずかな損失で、アメリカ海軍の駆逐艦アーロン・ワードやオーストラリア海軍のコルベット艦、油槽船やオランダ商船ヴァン・ヘームスケルクを沈めるなど完全に勝利し、航空機による船舶への攻撃が有効的であることを証明した。, 作戦の成功に満足した山本海軍大将[注釈 17] は、4月18日に「い号作戦」前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空でアメリカ海軍情報局による暗号解読を受けたロッキード P-38戦闘機の待ち伏せを受け、乗機の一式陸上攻撃機を撃墜され戦死した(詳細は「海軍甲事件」を参照)。しかし大本営は、作戦指導上の機密保持や連合国による宣伝利用の防止などを考慮して、山本長官の死の事実を5月21日まで伏せていた。なお、日本政府は「元帥の仇は増産で(討て)」との標語を作り、山本元帥の死を戦意高揚に利用する。, この頃日本陸海軍の暗号の多くはアメリカ海軍情報局により解読されており(もちろん日本軍もアメリカ軍の暗号を傍受、解読していた)、アメリカ軍は日本陸海軍の無線の傍受と暗号の解読により、撃墜後間もなく山本長官の死を察知していたことが戦後明らかになった。またアメリカ軍は、日系アメリカ人二世や三世などをオーストラリアの連合国翻訳通訳局などで暗号の解読に従事させ、日本軍の暗号の解読や捕虜の尋問などに役立てた[121]。, 5月には北太平洋アリューシャン列島のアッツ島にアメリカ軍が上陸。アメリカ領を初奪還すべく強力な陸海軍で及んだアメリカ軍に対し、戦略的観点からここを重視せず守備が薄くなっていた日本軍守備隊は全滅し(アッツ島の戦い)、大本営発表で初めて「玉砕」という言葉が用いられた。しかしアメリカ軍はこれ以上の南下をすると日本軍の強力な反撃が予想されるため、南下はしなかった。, 前年から行われていた日本軍によるオーストラリア北部への空襲は、5月に入るとその目標をオーストラリア空軍基地に集中した形で継続され、5月から11月にかけてノーザンテリトリーのみならず、西オーストラリア州内の基地に対しても空襲が行われ大きな損害を与えた。北西オーストラリア各地の空軍基地が大きな損害を受けた結果、オーストラリア軍やイギリス軍、アメリカ軍などからなる連合国軍への後方支援を決定的に弱体化させる結果となった。, これ以前から昭南やペナン、ジャカルタにおかれた日本海軍基地を拠点に、ドイツ海軍の潜水艦や封鎖突破船がインド洋において日本海軍との共同作戦を行っていたが、1943年3月にイタリア海軍がドイツ海軍との間で大型潜水艦の貸与協定を結んだ後に「コマンダンテ・カッペリーニ」や「レジナルド・ジュリアーニ」など5隻の潜水艦を日本軍占領下の東南アジアに送っている。またイタリア海軍は、日本が占領下に置いた昭南に潜水艦の基地を作る許可を取り付け、工作船と海防艦を送り込んだ。8月には「ルイージ・トレッリ」もこれに加わった。, しかし昭南到着直後の9月8日にイタリアが連合国軍に降伏したため、他の潜水艦とともにシンガポールでドイツ海軍に接収され「UIT」と改名した(なお同艦数隻は1945年5月8日のドイツ降伏後は日本海軍に接収され、伊号第五百四潜水艦となった[122])。なお船員らは一時拘留されたが、イタリア社会共和国(サロ政権)成立後、サロ政権に就いたものはそのまま枢軸国側として従事し太平洋及びインド洋の警備にあたった。, なおイタリアの降伏後には、天津のイタリア極東艦隊の本部であったエルマンノ・カルロット要塞は日本軍に包囲され、海兵隊「サン・マルコ」との間で小規模な戦闘の後に降伏した。この後多くのイタリア極東艦隊の将兵はサロ政権側について以降も日本軍と行動を共にするものの、サロ政権につかなかったものは日本に送られ、名古屋の収容所に入れられた。なお天津のイタリア租界は汪兆銘政権の管理下に置かれた。, 南方のソロモン諸島での戦闘は依然日本軍が優勢なまま続き、7月のコロンバンガラ島沖海戦で日本海軍は軽巡洋艦神通を失うも、アメリカ海軍やニュージーランド海軍艦艇からなる艦隊を、アメリカ海軍駆逐艦グウィンを撃沈、軽巡洋艦ヘレナとホノルル、セントルイス、ブキャナン、ウッドワースとニュージーランド巡洋艦リアンダーを行動不能にさせた。また、10月にベララベラ島沖で行われた第二次ベララベラ海戦でもアメリカ海軍の駆逐艦1隻撃沈、同2隻を大破し連合軍に完勝する。, なおベラ湾夜戦では後のアメリカ大統領のジョン・F・ケネディがアメリカ海軍の魚雷艇(PT-109)に乗船中、日本海軍の吹雪型駆逐艦天霧に8月2日未明と遭遇し、衝突して真っ二つにされてしまう[123]、ケネディ中尉は他の乗員とともに海に放り出された[124][125]。2名が戦死したものの、残り11名とともに近くの小島に漂着の後[125]、一週間後に救助された[126]。, ニューギニア島でも日本軍とアメリカ軍とオーストラリア軍、ニュージーランド軍からなる連合国軍との激戦が続いていたが、物資補給の困難から10月頃より日本軍の退勢となり、年末には同方面の日本軍の最大拠点であるラバウルは孤立化し始める。しかしラバウルの日本軍航空隊の精鋭は周辺の島が連合国軍に占領され補給線が縮まっていく中で、自給自足の生活を行いながら連合軍と連日航空戦を行い、終戦になるまで劣勢になることはなかった(これは開戦時から生き残ったエースパイロット達の卓越した腕も関係している)。, 一方連合軍が劣勢のままのビルマ戦線では、イギリス軍やアメリカ軍からの後方支援を受けた中華民国軍新編第1軍が、新たに10月末に同国とビルマの国境付近で日本軍に対する攻撃を開始したが、これは小規模なもので日中両国に大きな影響を与えることはなかった。また中国戦線ではアメリカ軍も加わり11月から常徳殲滅作戦が行われた。, 11月に日本の東條英機首相は、満洲国、タイ王国、フィリピン、ビルマ、自由インド仮政府、中華民国南京国民政府などの首脳を東京に集めて大東亜会議を開き、大東亜共栄圏の結束を誇示する。なおこれに先立つ10月には、先にドイツから潜水艦で到着後インド独立連盟を引き継ぎ、イギリスからの独立運動を昭南を中心に行っていたスバス・チャンドラ・ボースが首班となった自由インド仮政府が設立され、ボースは同時に英領マラヤ、昭南や香港などで捕虜になった英印軍のインド兵を中心に結成されていた「インド国民軍」の最高司令官にも就任し、その後日本軍と協力しイギリス軍などと戦うこととなった。, 一方、初戦の敗退をなんとか乗り越え戦力を整えた連合国軍はこの11月からいよいよ反攻作戦を本格化させ、太平洋戦線では南西太平洋方面連合軍総司令官のダグラス・マッカーサーが企画した「飛び石作戦(日本軍が要塞化した島を避けつつ、重要拠点を奪取して日本本土へと向かう)」を開始し、11月にはギルバート諸島のマキン島、タラワ島の戦いでオーストラリア軍からの後方支援を受けたアメリカ軍の攻撃により日本軍守備隊が敗北、同島はアメリカ軍に占領された。また同月から12月にブーゲンビル島で行われた一連の戦い(ろ号作戦、ブーゲンビル島沖海戦、ブーゲンビル島沖航空戦)では日本軍は敗北したに見えたが、ブーゲンビル島を巡る戦いは均衡したまま1945年8月の終戦まで続いた。, また11月には、去年の2月から連続して行われた日本軍のオーストラリア空襲が終わりを告げるなど、ようやく態勢を立て直したイギリス、中華民国、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドからなる連合軍と、アメリカ本土からオーストラリア、インドから東アフリカまで、戦線を伸ばしすぎて兵士の補給や兵器の生産、軍需物資の補給に困難が生じながら、事実上1国で戦わなければいけなかった日本軍との力関係は連合国有利へと傾いていき、日本軍は開戦後2年を経てついに後退を余儀なくされていく。, ビルマ方面では日本陸軍とインド国民軍が共同で、イギリス陸軍との地上での戦いが続いていた。3月、インド北東部アッサム地方の都市でインドに駐留する英印軍の主要拠点であるインパールの攻略を目指したインパール作戦とそれを支援する第二次アキャブ作戦が開始された。, 昭南からスバス・チャンドラ・ボース率いるインド国民軍まで投入し、劣勢に回りつつあった戦況を打開するため9万人近い将兵を投入した大規模な作戦であった。しかし、補給線を無視した無謀・杜撰な作戦により約3万人以上が命を失う(大半が餓死によるもの)など、日本陸軍にとって歴史的な敗北となった。同作戦の失敗により翌年、アウンサン将軍率いるビルマ軍に連合軍へ寝返られ、結果として翌年に日本軍はビルマを失うことになる。, しかし日本軍は5月頃、アメリカ軍やイギリス軍による通商破壊などで南方からの補給が途絶えていた中国戦線で、日本側の投入総兵力50万人、800台の戦車と7万の騎馬を動員した作戦距離2400kmに及ぶ大規模な攻勢作戦が開始し、ここに日本陸軍の建軍以来最大の攻勢である「大陸打通作戦」が開始された。, 作戦自体は京漢鉄道の黄河鉄橋の修復が1943年末から開始され、関東軍の備蓄資材などを利用して1944年3月末までに開通するなど、周到な準備が行われ、また河南の中華民国軍は糧食を住民からの徴発による現地調達に頼っていたため、現地住民の支持を得ることができなかった。これが中華民国軍の敗北の大きな一因になったと言われる[127]。蔣鼎文によるとほとんど一揆のような状態だったという。, 日本陸軍の攻撃を受けて、4月にはアメリカ軍は最新鋭爆撃機である出来たばかりのボーイングB-29の基地を成都まで後退させている。また長沙、その後1944年11月には桂林、柳州の中華民国軍とアメリカ軍の共同飛行場も占領したが、すでにもぬけの殻であり連合国軍は撤退していた。12月まで中華民国軍とアメリカ軍を相手に続くが、計画通りに日本軍が連合国軍の航空基地の占領に成功し勝利を収め、その後連合国軍が航空基地をさらに内陸部に撤退せざるを余儀なくされた上、結果的に日本軍の最大の陣地の中国北部とインドシナ方面の陸路での連絡が可能となった。, なおルーズベルトは開戦以来一貫して中華民国の蔣介石を強く信頼しかつ支持しており、カイロ会談の際に、蔣介石を日本との単独講和で連合国から脱落しないよう、対日戦争で激励し期待をかけたが、大陸打通作戦作戦により蔣介石の戦線が総崩れになった事でその考え方を改めたという。実際、これ以降蔣介石が連合国の重要会議(「ヤルタ会談」と「ポツダム会談」)に招かれる事はなくなった。, 5月17日には、イギリス海軍とアメリカ海軍との合同機動部隊による、ジャワ島スラバヤの日本軍基地に対する航空攻撃「トランサム作戦」が行われ、日本軍の航空機や艦船、陸上施設に打撃を与えることに成功した。これは極東でのイギリス海軍航空隊による最初の大規模な反撃で、以降アメリカ軍だけでなく、イギリス軍やオーストラリア軍も日本に対して反撃に転じることになる。, 日本の陸海軍、緒戦の予想以上の勝利で伸びきった補給線を支えきれなくなり、それ以降はイギリス軍やアメリカ軍、オーストラリア軍や中華民国軍などの連合国軍に対し各地で劣勢に回りつつあったため、本土防衛のためおよび戦争継続のために必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた地点・地域である「絶対国防圏」を昨年9月に御前会議で設けた。.
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