今年3月29日、63歳で亡くなられた山本博文氏(東京大史料編纂所教授・日本近世史)。92年「江戸お留守居役の日記」で日本エッセイスト・クラブ賞受賞し、テレビ番組等でも活躍した。, 山本氏が上梓した『[東大流]流れをつかむ すごい! 日本史講義』は、古代から現代まで、最新研究を取り入れつつ、歴史の重要ポイントを学び直す一冊となっている。, ここでは同書の一部を抜粋編集し、徳川慶喜は大政奉還を決断するに至る流れをを追う。慶喜は薩摩藩の内情と実力を見誤ったと、山本氏は言う。, 慶応3年(1867)10月14日、15代将軍徳川慶喜は、朝廷に大政奉還を行います。, 大政奉還を行った慶喜の意図は、一般的には、先手を打って政権を返上し、新しい政府の中で主導権を確保しようとしたものだとされています。中には、大政奉還をすることによって、将軍と摂関を合一した権力を握ろうとしたものだ、という説もあります。, 慶喜は、有能だと見なされているので、その彼がただで権力を手放すはずがない、という考え方です。これに対し、家近良樹氏は、「内乱」の発生を嫌った慶喜が迷いに迷ってとった方策だったという説を提出しています(『徳川慶喜』)。, 大政奉還は、土佐藩から幕府に建白されたものでした。旧土佐藩士福岡孝弟の回想(『旧幕府』第二巻第一号)によれば、この頃、京都には、薩摩藩士が「充満」していたと言います。, 薩摩藩の大久保利通は、公家の岩倉具視と共謀して「討幕の密勅」を得、一挙に幕府を倒そうと考えていました。「勅」とは天皇の命令ですが、当時、明治天皇は幼少であり、岩倉が勝手に創り上げたものでした。, 福岡は大久保に、「挙兵するのを5日間待ってほしい」と頼み、若年寄格の永井尚志に談判に行きました。大久保は、5日間の延期すらたいへん不満なようでした。, 福岡から大政奉還を勧められた永井は、不承知の様子でした。当然です。しかし、福岡が「幕府の兵は、薩兵を圧する力があるか」と尋ねると、しばし思案し、「とうてい圧服すべき力はない」と言って、大政奉還の事を言上することを承諾した、と言います。, 土佐藩の後藤象二郎と福岡が老中板倉勝静に建白書を提出したのは、10月3日のことです。板倉は、何も言わずに受け取りました。, 福岡らは、「これは平常の建白書ではありません」と念を押しましたが、板倉は「承知している」と言っただけで他には何も言いませんでした。, 同月10日、慶喜は、かつて政事総裁職の任にあった松平春嶽に板倉を遣わし、大政奉還に関する意見を求めました。慶喜は、この頃までは迷っていたのです。, 同月12日、ついに決意した慶喜は、土佐藩に通知し、老中や大目付・目付らを二条城に招集し、大政奉還を決断したことを告げました。, そして翌日、京都にいた諸藩の重臣を二条城に招集し、大政奉還の意見書を示して諮問しました。慶喜は、薩摩藩に対しては、特に家老小松帯刀を指名して召しました。小松は薩摩藩の佐幕派であり、大久保などが出てくると面倒だと思ったからだったと後に語っています。, 「非常の御大事であるから、速やかに本国へ申し遣わしまして、藩論を承った上で、改めて上申をいたすでございましょう」と言って、みな退散したと言います(『昔夢会筆記─徳川慶喜公回想録』)。, これを見ると、諸藩も慶喜の言葉をどう受け取っていいのか迷っていたことがわかります。一方、幕臣たちは、大政奉還など論外の選択だと考えていました。ただし、薩摩藩の小松と土佐藩の後藤、福岡、広島藩の辻将曹らは、慶喜に会見を申し出、即座に大政奉還を朝廷に申し出るよう意見しています。, これは、やはり薩摩藩士が京都に大勢いたということが鍵となるように思います。もし、大政奉還を申し出なければ薩摩藩士が暴発すると、慶喜が本気で考えていたのではないか、ということです。, 一橋家出身の慶喜には、自ら頼りにできる軍事力がありません。旗本らもそれほど多数は京都にいませんでした。頼りになるのは、京都守護職松平容保率いる会津藩の軍勢しかありません。こうした中で、慶喜は不安にかられたのではないでしょうか。, この噂は、慶応3年(1867)5月24日、徳川慶喜主導で兵庫開港の勅許が行われた頃から流れています。兵庫開港勅許は、慶喜と薩摩・土佐・越前・宇和島の四藩主との関係を悪化させることになったからです。, 長崎から上京してきた後藤象二郎は、薩摩藩の挙兵計画を聞き、何としても内乱を避けなければならない、と考えます。そこで、土佐藩京都藩邸の重役に、大政奉還を将軍に働きかけ、奉還後は朝廷内に新たに設置する議会に国政の運営を任せる、という案を提案します。内乱が起きることなく幕府を終焉させ、慶喜を中心に雄藩藩主が政治を遂行する体制に移行させる、という構想です。, これに西郷隆盛も飛びつきました。もし、慶喜が大政奉還を拒否すれば、それを大義名分として挙兵することができるからです。, 8月14日、西郷は、長州藩に挙兵計画を打ち明けています。京都に滞留している薩摩藩兵千名を三つに分け、御所の守衛を行うとともに、会津藩邸と幕府屯所を襲撃する、というものでした。, しかし、この時、薩摩藩の国父(藩主の父)島津久光は鹿児島におり、出先の西郷や吉井友実らの先走った行動だったようです。, 西郷らから出兵要請を受けた鹿児島では、なぜ京都へ出兵しなければならないのか理解できず、また財政窮乏もあって出兵は難しいとの議論が主流でした。京都藩邸の最高責任者である家老関山糺らは、挙兵に大反対で、久光の許可を得て西郷を手討ちにしようとまで考えていました。, 薩摩藩士の一人は、「この二人(西郷と吉井)はどういう者たちなのだろう。(挙兵すれば)長州藩の二の舞になることは明らかで、初めは勢いがあるかもしれないが、すぐに兵糧切れになるのは疑いない。実に国家(薩摩藩)の大賊とも言うべく、憎むべき者たちである」と日記に書いています。, 多くの薩摩藩士にとって、まだ幕府は強大な相手で、とうてい薩摩藩だけで倒幕などという大それた計画を実現できるとは考えていなかったのです。, 西郷にしても、薩摩藩の京都挙兵で倒幕が実現するという成算があるわけではありませんでした。ただ、倒幕の尖兵となって死ねばよいという、この頃の尊皇攘夷派に特徴的な思考方法があったにすぎません。, しかし、薩摩藩内部が対立を含み、西郷らの強硬路線が少数派であったとしても、土佐藩が大政奉還の建白書を出した頃には、薩摩藩の挙兵計画が実体のあるものと受け取られていたのです。, 大政奉還は、摂政二条斉敬や中川宮(朝彦親王)にとっても衝撃でした。即位したばかりの明治天皇は幼少で、また政治を数百年にわたって武家に任せていた公家たちに国政担当能力はなかったからです。, 慶喜は、督促してまで大政奉還の受諾を求めます。形式的にではなく、本気で大政を奉還しようと考えていたのです。, その後の歴史的経過から考えれば、政治の実権を握る根拠となる将軍職を手放したのは失敗でした。しかし、慶喜とすれば、大政奉還によっていったん事態を収め、その後は自分の政治力で国政の主導権を握るという選択もありえるように思えたのでしょう。, 激動する政治の場では、相手の内情や本当の実力は見えません。慶喜の場合は、相手を過大評価し、一時後退の手段をとったために、流れを相手に渡してしまったのです。この時、別の決断をしたら、政局は別の形で動き、日本近代のあり方もまったく違っていたかもしれません。, 「新選組」か「新撰組」か?、給料はいくら?〜最新研究とともにたどる新選組の軌跡(山村竜也), 鎌倉幕府は、なぜ滅亡したのか?〜歴史における「引き金」を引いた後醍醐天皇(山本博文). mixiチェック; 2020年05月25日 公開. 老中 松平定信 が当時15歳であった第11 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 素晴らしい解説、、弓道の歴史を調べていたところ、江戸幕府についての記事があり大政奉還についてよくわからなかったので調べていました。とても助かりました。是非うちの学校の先生になってください( ; ; ), れきし上の人物.comサイト管理人。元々はかなりの歴史オンチ。今では歴史にハマってしまい、城巡りとかしちゃってる。よかったらフォローしてってください。. 徳川慶喜(とくがわよしのぶ)といえば、最後の将軍として教科書に必ず出てくるほど有名です。, 今回、徳川慶喜のかんたんな経歴、なぜ大政奉還した?狙いは?、子孫について紹介していきますよ。, 名前:徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ)出身地:江戸 小石川(現・東京都文京区後楽)生誕:1837年10月28日死没:1913年11月22日享年:77歳時代:江戸時代後期-明治時代-大正時代, 徳川慶喜は、1837年に江戸小石川(現・東京都文京区後楽)にある水戸藩邸で生まれました。, 慶喜が生まれた天保年間は、天変地異による農作物の不作が続き、大飢饉が発生し、「大塩平八郎の乱」をはじめ各地で農民一揆が起こるなど、幕府への不満が高まった時代でした。, 水戸藩の教育ポリシーに基づいて、慶喜も水戸の藩校である弘道館で学問や武芸を学びました。, 1847年に第12代将軍・徳川家慶(いえよし)の命を受け、同じ徳川一族であった一橋家に養子となります。, そして、1853年の黒船来航の大混乱の中で家慶が死去すると、すぐに後継者問題に巻き込まれます。, 14代将軍候補として選ばれるも井伊直弼による「安政の大獄」で処罰され、謹慎生活を送ります。, 1864年には、「禁門の変」と呼ばれる幕府と長州藩の戦いが起こり、見事勝利に導きました。, 1866年に第14代将軍・徳川家茂が死去すると、ようやく第15代将軍の座につき、「大政奉還」から明治政府成立まで、あわただしい日々を過ごすこととなります。, ものすごい勢いでたくさんの出来事が起こった幕末ですが、その一つに「大政奉還」があります。, 実はこの頃、江戸幕府に不満を持つ者、日本の夜明けを夢見る者とで日本中は大混乱に陥っていました。, 植民地支配の恐れに気付いた慶喜は、このタイミングで新政府軍と徳川幕府軍の戦いが始まれば、すんなりとイギリスかフランスの植民地支配されることが予想されたために、慶喜は大政奉還を行い争いを避けたのです。, 大政奉還を行えば、新政府軍は徳川幕府軍を倒す理由を失い、争う必要がなくなるからです。, しかし、大政奉還=政権交代の意味ではなく、大政奉還後も政治の実質的リーダーは慶喜であったことから、結局は新政府軍と徳川幕府軍が争うこととなった「戊辰戦争」、そして明治新政府という歴史を辿ることとなります。, この大政奉還が行われたことで源頼朝の時代から約680年間続いた日本の武家政権は終わりを迎えました。, ともあれ、植民地支配の危機から日本を救った慶喜は、もっと高い評価を得ても良さそうです。, 幕末の人物でありながら、大正まで生き続けてくれたなんて、急に親近感が生まれてきます。, そして気になる子孫ですが、徳川慶朝(とくがわよしとも)さんがいらっしゃいました。慶喜のひ孫です。, カメラマンとして活躍なさって、慶喜と同じ「慶」の字が入っていることもポイントです。, 慶朝さんには3人の子ども(2男1女)に恵まれますが、離婚したことにより親権は手放します。, 慶朝さんは生前から、「徳川を継いでいくことにはこだわらない」とおっしゃっていました。, 「誰かに家を継がせたいという欲はないです。歴史や過去は変わらないですが、現代を生きる私たちは、私たちの好きなように人生を生きればいい。家に縛られる必要はなく、自分の幸せだけを考えて生きていけばいいんです。人はいくら長生きできたとしても、本人が死んだら終わりなのですから。だから慶喜家は自分で終わりになっても、惜しいとか残念とは思いません。」, 徳川家の子孫だという誇りは当然あったと思いますが、このように自由に生きるのも素晴らしいし、素敵だと思います。, そういえば、「水曜日のダウンタウン」で「徳川慶喜を生で見た事がある人ギリこの世にいる説」とかいうおもしろいテーマで放送していましたね。, ・日本史上最後の征夷大将軍だった ・江戸城には、1度も住まなかった ・約680年続いた武家政権を終わらせた ・大政奉還で日本の植民地化を防いだ ・徳川慶喜を生で見た事がある人ギリこの世にいた!. 山本博文(東京大史料編纂所教授) 晩年の徳川慶喜 . 西郷どん 徳川慶喜 . new! Tweet. <青天を衝け>上白石萌音が天璋院、川栄李奈は慶喜の正室役に!新たな出演者20人が発表, 吉沢亮主演の大河「青天を衝け」出演者発表 “篤姫”役に上白石萌音、井伊直弼役に岸谷吾朗ら豪華キャスト, 大河ドラマ「青天を衝け」新キャスト 上白石萌音、吉幾三ら 小池徹平、モーリー氏ら大河初出演, 掲載情報の著作権は提供元企業等に帰属します。 大阪で383人感染 3日連続300人超 色々な批判が集まり、幕府の威信は下がります。 そんな幕末の末期に、薩摩藩と長州藩が協力して、幕府を倒すために薩長同盟を結びます。 討幕の勢いが激しくなり、戦争の準備を整えた薩摩藩と長州藩は天皇に、 「幕府を正式に、倒させてください」 と願い出ます。 天皇のお許しが出たら後は、戦です。 しかもこの薩長同盟。すごく強いのです。 西洋の最新武器を沢山持っていて、幕府が戦をしても、勝てる確率はかなり低い物でした。 そんな武力を持つ薩長同盟に睨まれた幕府は、このまま行けば幕府 … なぜ徳川慶喜が大政奉還を行ったか教えてください。幕府の威光が地に落ちて 諸大名が徳川家の言うことを聞かなくなったから仕方なく慶喜は新政府の役職につけると思ったが結局新政府には選ばれずあぁ悲しいかな地味に慶喜は昭和まで生き 大政奉還を決断した慶喜の意図. (徳川慶喜 出典:Wikipedia) 大政奉還をした理由は、討幕派による武力討幕や混乱を防ぐためです。 当時、薩摩や長州は武力で幕府を倒そうとし、会津藩や桑名藩は実力を使ってでも阻止しようとしていました。 「このままでは、無秩序な内戦になってしまう」。 そう考えた慶喜は、「政治を朝廷に返しても実際に国をまとめるためには徳川家は無視できない。いずれ、徳川家にも協力要請がくるだろう。その時に、天皇のもとで徳川氏主導の政権を作ればいい」と考えたのです。 しかし、事態はそうなら … 大政奉還は1867年に15代将軍の徳川慶喜によって朝廷へ政権を返上したことをいいますが、これによりついに江戸時代も幕を閉じることになってしまいます。徳川家康が1603年に江戸幕府を開いてから約265年も続いた江戸時代ですが、ついに新しい時代へと進んでいくことになるのです。 実は挙兵に大反対だった薩摩藩の内部事情. 徳川慶喜が大政奉還をした理由は何?その結果は予想外の展開 . 徳川慶喜(とくがわよしのぶ)といえば、最後の将軍として教科書に必ず出てくるほど有名です。 徳川幕府そして日本史上でも最後の征夷大将軍であります。 今回、徳川慶喜のかんたんな経歴、なぜ大政奉還した?狙いは?、子孫について紹介していき [&he 2020年1月10日. なぜ、徳川慶喜は大政奉還を受け入れたのか?~見誤った薩摩藩の内情 Tweet; シェア. 徳川慶喜は江戸で謹慎して江戸城は戦争をすることなく明け渡されますが、旧幕府の一部は戦争を続けます。最後は新政府が勝利して終わり結局、大政奉還は徳川慶喜が思い描いていたようにはなりません … 沈没13人不明 漁労長を書類送検 慶応3年(1867)10月14日、15代将軍徳川慶喜は、朝廷に大政奉還を行います。 大政奉還を行った慶喜の意図は、一般的には、先手を打って政権を返上し、新しい政府の中で主導権を確保しようとしたものだとされています。 Copyright (C) 2020 PHP Institute Inc. All Rights Reserved. 大政奉還を決断した慶喜の意図. Pocket. よぉ、桜木建二だ。今日は大政奉還について勉強していくぞ。大政奉還とは幕府が朝廷に政権を返上することだが、ここで様々な疑問が浮かぶだろう。最大の疑問は「大政奉還を行ったのになぜ幕府と朝廷が争うのか?」だな。 【スタディz】 歴史. 日本史の考え方114「なぜ徳川慶喜は大政奉還したのか②」 前回の続きになります。 松平定信 が当時の幼い将軍に語った「 大政委任 」とは、どのようなものだったのかということでした . 徳川慶喜【大政奉還の真実】二条城での大英断はなぜ行われたのか? 公開日 : 2018年3月2日 / 更新日 : 2018年10月30日. new! 慶応3年(1867)10月14日、15代将軍徳川慶喜は、朝廷に大政奉還を行います。 大政奉還を行った慶喜の意図は、一般的には、先手を打って政権を返上し、新しい政府の中で主導権を確保しようとしたものだとされています。
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