楠木 正虎(くすのき まさとら 永正17年(1520年) - 文禄5年1月11日(1596年2月9日))は、戦国時代から安土桃山時代の武士、世尊寺流の書道家。足利義輝、松永久秀、織田信長、豊臣秀吉に仕えた。, 大饗氏[注釈 1]の出。生国は備前[1][注釈 2]。のち、伊勢国神戸(現在の三重県鈴鹿市神戸)に住したという(『梶川系図』)[1]。はじめは通称を大饗長左衛門(甚四郎)。『尊卑分脈』所収『橘氏系図』によれば楠木正成の孫楠木正秀の子という河内大饗氏の大饗正盛の子孫大饗隆成の子[2]。楠 長譜(くすのき ちょうあん)と名乗った。式部卿法印、従四位上河内守[1]。子に楠木正辰[1]。, 織田家、豊臣家の右筆(書記官)を担当した[1]。正虎は、書を飯尾常房に学んだと言われる(飯尾常房は文明17年(1485年)に没しているので、実際にはその弟子筋の人物に学んだと推測される)。世尊寺流の当代一流の書家であった[1]。, 織田信長が羽柴秀吉の妻である高台院に出した古文書があり、これは昭和初期まで信長の直筆とされてきたが、右筆の正虎が書いたものであることが明らかとなった[3]。, 楠木正成の子孫と称し、朝廷に正成の朝敵の赦免を嘆願した。これには松永久秀の取り成しもあったとされる。永禄2年(1559年)11月20日には正親町天皇の勅免を受けて、晴れて楠木氏を公言できるようになった(『旧讃岐高松藩士楠氏家蔵文書』[注釈 3])。天正3年(1575年)には式部卿法印に叙せられ、松井友閑らとともに佐久間信盛の監督官の立場に任じられる。天正9年(1581年)2月の京都御馬揃えでは坊主衆の一員としての参加が確認できる(信長公記)。, 出身である備前焼の有力窯元であった備前大饗氏とは親しい関係が続き、天正10年(1582年)3月に羽柴秀吉が備前に滞留した際は大饗邸に滞在した[5]。, 文禄元年(1592年)からの朝鮮征伐に際しては、肥前国名護屋城において、石田三成の父である石田正継とともに記帳などにあたった。後に従四位上河内守に任じられた。, 息子に楠木正辰(通称を甚四郎)がいて、冷泉家の娘を妻としていた[1]。楠木正虎父子は冷泉家・山科家と親しかった[1]。, また、宇喜多氏(のち徳川氏)の家臣楢村玄正は正虎の子を称している(『楢村系図』[6])。, 「備前は長諳生国にて知己おほし」「まへ片上にも打つヽき六年在城し侍」る。『楠長諳下向記』 城は備前市東片上の戸田松城で元は播磨浦上氏の浦上国秀支配であったが、宗景独立により退去し、隣接する伊部・香登を本拠とする大饗氏の主, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991593/33, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1915593, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=楠木正虎&oldid=78471509. 楠木正成の子孫と称し、朝廷に正成の朝敵の赦免を嘆願した。これには松永久秀の取り成しもあったとされる。永禄2年(1559年)11月20日には正親町天皇の勅免を受けて、晴れて楠木氏を公言できるようになった(『旧讃岐高松藩士楠氏家蔵文書』 )。

:*゚:*:✼✿(ღ✪v✪)。゚:*:✼.。✿.。キラキラ♥, 千早赤阪村―京都後醍醐天皇に拝謁―伏見―山崎―櫻井寺宿泊―郡山(茨木市)-箕面(楠水竜王)-石橋―池田寿命寺―伊丹―昆陽野―尼崎―和田岬(西宮)-湊川「会下山」, Facebook で共有するにはクリックしてください (新しいウィンドウで開きます), 陽松庵の座禅会日記⑥【10月15日】移ろいゆく四季/天桂禅師の眠る寺/池田市吉田町/2017/10/15, cafe YOOI/カフェヨーイ スピリチュアルで日本一まったりできる猫カフェ/池田市井口堂. 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 傑堂は初め「音に聞こゆ武人」であったが、24歳の時(1378年)に戦傷を負ったことがきっかけで、仏門に入った[31]。当初、永和4年(1378年)に古剣智訥から臨済宗法燈派を学んだが、のちに曹洞宗に転向して通幻寂霊や梅山聞本に師事し、特に梅山のもとで頭角を現してその法を嗣いだ[31]。越後に赴任し、応永元年(1394年)に耕雲寺(新潟県村上市)を、また応永10年(1403年)には慈光寺(新潟県蒲原郡村松町)を開基し、一時常陸にも赴いたが、晩年は越後に戻った[31]。弟子に顕窓慶字や南英謙宗などがいる[31]。, 正勝であるかはともかく、この傑堂能勝が楠木正成の縁戚であるとする仮定は否定できないが、正成との関係については傑堂能勝が開基した各寺の寺伝でまちまちである。傑堂の本拠地である耕雲寺では楠木正儀の嫡子であった(つまりは正勝か)とされ[13]、茨城県耕山寺[32]でも同じく傑堂の正体は正勝という。傑堂能勝の法を嗣いだ顕窓慶字が開山した新潟県南魚沼市の雲洞庵でも、傑堂能勝=楠木正勝説を取る[8]。その一方で、山形県鶴岡市高坂の洞春院では楠木正成の三男[33]、山形県小国町市野々村の飛泉寺(応永24年(1417年)創建)では楠木正成の三男あるいは四男とする[34]。また、耕雲寺の寺紋は「菊水」である[要出典]。, 藤田精一は、正勝と古剣智訥の年代が合わないことを指摘し、『慶字禅師行状』に傑堂能勝は楠木正成の孫で通称を次郎左衛門と言うとあり、一方で『群書類従』「橘系図」に正秀の通称は二郎左衛門、正元の通称は二郎とあることから、傑堂の正体は正勝ではなく、弟の正秀か正元なのではないか、と仮説を立てている[35]。, その他、兵庫県加西市山下町の正禅寺には、明徳元年(1390年)に楠木正勝と梶原景禅が開基したという伝説がある[36]。, さらに、静岡県駿東郡小山町菅沼の曹洞宗甘露寺は、嘉慶元年(1387年)に楠木正勝の出家後の姿である正巌徳勝(しょうがん とくしょう)によって真言宗金剛王院の末寺として開基され、江戸時代に曹洞宗として再建されたと寺伝では伝えている[14]。ただし、嘉慶年間に創られた宝篋印塔の銘からは、実際はこの徳勝なる人物は初めから禅宗の寺院として甘露寺を開基したことが解明されている[14]。, 浄土真宗本願寺派に伝わる伝説では、永徳2年(1382年)ごろ、戦乱の無常を悟った正勝は河内の真言宗西光寺に隠棲していたが、このころ本願寺派第4世宗主である本願寺善如の教えを受けたという[16]。 2020/4/12 昨日、何気なく神戸に行ってみようかなぁ♪と思い立ち中岡さんに「さて(^^) 私は神戸のどこに行ったらいいでしょう?」と相変わらずのんきなことを聞いたら「湊川神社か神戸ステーキやな」というお答え。ふーん・・・とグーグル先生に場所を教えてもらっ 官位は従五位上[1]・左衛門尉(村田倶信『全休庵楠系図』)[1]・検非違使尉(『後太平記』巻9)[2]、のちに右馬頭(『事実文編』拾遺一所収の林信篤『木俣守勝墓碑誌』[9]、徳川光圀『大日本史』巻177[3])。, 正平6年/観応2年(1351年)、楠木氏惣領正儀の嫡子として出生[注釈 1]、幼名は小太郎(『全休庵楠系図』)[1]。母は不明だが、正勝は一貫して嫡子として扱われていることなどから、楠木正儀の正室とされる伊賀局が候補として考えられる。, 正平24年/応安2年(1369年)、父の正儀が北朝に帰順(『大日本史』巻177-『花営三代記』)[17]。ところが、楠木宗族のうち勤王を貫く者たちは、惣領であるはずの正儀の決定に従わず、逆に合従して正儀を攻め、正儀は身内に敗退して河内国から命からがら脱出している(『大日本史』巻177に引く『後愚昧記』)[17]。この「楠木宗族勤王者」の中に正勝がいたかどうかは古記録では定かではないが、飯田忠彦『大日本野史』巻93は、このとき正勝は父に逆らい南朝に留まり続けたと断じ、そのため正儀が後に南朝に帰参するまで、たびたび父子対決が起こったと主張している[18]。正勝は紀俊文(晩年は南朝方)の娘を妻としているため[1]、実際、南朝方として父に対し戦っていた可能性はある。, 建徳元年/応安3年(1370年)、南朝の楠木宗族が和田正武の軍と手を組み、北朝の楠木正儀を打ち破る(『大日本史』巻177-『花営三代記』)[17]。, 建徳2年/応安4年(1371年)秋、北朝方の父・正儀が、南朝から河内国を奪還する(『大日本史』巻177に引く『花営三代記』)[17]。, 天授3年/永和3年(1377年)、紀俊文(従三位刑部卿)の娘との間に、伊勢楠木氏初代当主となる正盛(後に大河内顕雅の偏諱を受け正顕に改名)を授かっている(『全休庵楠系図』)[1]。その他、正堯[1]や信盛[6]などの子もいたとされる。, 『後太平記』巻7「長慶院殿諸所御隠歩之事」が伝える伝説によれば、天授4年/永和4年(1378年)5月2日、長慶法皇は仏道の修行として吉野をお忍びで抜け出し、千早城まで徒歩で踏破して、楠木正儀・正勝父子をねぎらった[19]。思わぬ出来事に、楠木父子は感涙でむせび泣いた、という[19]。しかし、近年の研究では長慶天皇が法皇となり院政を敷いたのは1383年とされ、時期が合わない。またこの頃、正儀とその千早城は北朝に所属しており、僧形に身を変じていたとしても、南朝の頂点である重要人物の長慶天皇が無事千早城に辿り着けた可能性は低い。, さらに、『後太平記』巻7「千剣破合戦付正成遺書之事」等では、同年12月、土丸城を攻め落として勢いづく北朝方を、「南朝方の」正儀・正勝父子が千早城で迎え撃った、としている[20]。しかし、これは当時正儀と千早城が北朝方だったという定説とは矛盾している。, 弘和2年/永徳2年(1382年)に父の正儀が南朝に帰参し、参議という高職につく。義満は報復措置として、山名氏清を派遣し、正儀を河内国平尾(現在の大阪府堺市美原区平尾)で撃破した(『大日本史』巻177)[17]。ここで正儀は、宗族6人と家臣140人を失うという手痛い敗北を喫している(『大日本史』巻177)[17]。, 元中年間(1384–1392年)に父の正儀が死去した後、名実ともに楠木一門を率いる惣領となる(『大日本史』巻177)[3]。, 正儀死後に楠木氏の勢力は急速に衰え、わずか300余騎を残す程度であったが、北朝の武将山名氏清は正儀に苦しめられた経験から、楠木氏はあえて劣勢を装っているのだと過剰に警戒し、楠木軍と山名軍は膠着状態にあった(『後太平記』巻9「河内国平尾合戦之事并亀六之術事」)[2]。『後太平記』はこの様子を『三国志』の「死せる孔明生ける仲達を走らす」の故事で喩えている[2]。, 元中5年/嘉慶2年(1388年)8月17日未明、子飼いの精鋭騎兵200を含めた1000余りの手勢を率い、紀伊国の名勝和歌浦玉津島神社から帰京の途にあった室町幕府第3代将軍足利義満を奇襲しようと企てる[2](『後太平記』巻9「河内国平尾合戦之事并亀六之術事」)。しかし、赤坂城に駐留中の山名氏清に動向を察知されており、河内国平尾(現在の大阪府堺市美原区平尾)に先回りされ、自軍の4倍近い3500余りの兵と戦うことになる[2]。正勝は奇策や挑発など手を尽くしたが、氏清は慎重に慎重を重ねて徹底防御を貫いたため、正勝の軍が疲弊してきたところを狙われ、最後は数的優位を活かされて散々に打ち破られた(詳細は平尾合戦)[2]。, 元中7年/明徳元年(1390年)4月4日に「伊予守」という人物が「楠木右馬頭」という人物へ当てた書状の文面(『南狩遺文』所収)[注釈 2][21]が残っていることから、この頃までには右馬頭に任じられていたと考えられる。, 同年、剃髪し、仏門に入る(『全休庵楠系図』)[22]。その理由や、虚無や傑堂能勝といった高僧と同一人物であるという仏教伝説との関係は不明。, 元中9年/明徳3年(1392年)春、畠山基国に楠木氏の本拠地である千早城を落とされ、吉野に敗走(『大日本史』巻177に引く『渡辺系図』)[3]。この年閏10月5日(1392年11月19日)、南北の朝廷が講和したため、南朝の後亀山天皇が吉野から京に帰ってしまう(明徳の和約)。しかし、正勝は鬱々として、これでは志を得られないとして、北朝には合流しなかった(『大日本史』巻177)[3]。なお、『後太平記』巻14「千剣破合戦之事付城郭明退事」は千早城陥落を南北朝統一後の12月としている[23]。, 同年、弟の正元が南朝残党とともに斬られ、晒し首にされる(『全休庵楠系図』)[1]。, 応永6年(1399年)、守護大名大内義弘が応永の乱を起こし、室町幕府に対し反旗を翻すと、正勝もこれに呼応し[注釈 3]、正盛(正顕)・正堯の二子を連れて合流した(『全休庵楠系図』)[1]。兵数は二百余騎(『応永記』)[11]あるいは三百騎(『大日本史』巻177)[3]。このとき、友軍の菊池肥前守[注釈 4]という武将から、肥後菊池住延寿太郎国村作の銘がある名槍を贈られたという(『全休庵楠系図』)[1]。堺に3か月余篭城の末に、反乱軍は幕府軍に敗れ、義弘も闘死した。決着がついたことを知った正勝は、玉砕していたずらに死ぬのは無益であるが、降伏するのもまた恥である、と言って退却し、大和路に向かって逃走した[3]。北畠氏の重臣である鹿伏兎氏の伝承によれば、このとき幕府方として参戦していた伊勢国司北畠顕泰は、楠木の血を絶やさせてはならないと、鹿伏兎孫太郎忠賀に命じて、楠木軍を幕府軍に変装させて城内から連れ出し、正勝ら父子を窮地から救ったという(『鹿伏兎記』『鹿伏家楠氏詳伝』『邑戦異闘家記系図』)[24]。, 敗走中、戦闘で負った傷が悪化し、応永7年1月5日(1400年1月31日)に死去(『全休庵楠系図』)[1]。伊勢楠木氏の系図では、正勝の遺骸は二子の正盛(正顕)・正堯兄弟によって河内国大伴邑(現在の大阪府富田林市大伴地区)の林中に葬られたというが(『全休庵楠系図』)[1]、現在の大伴村に正勝に関する所伝は伝わっていない[11]。別伝として、埋葬地は大和国吉野の武蔵(現在の奈良県吉野郡十津川村武蔵)とする伝承も根強い[4]。, 伊勢に逃れた嫡子の正盛は、北畠家の庇護を受け、伊勢国司代行大河内顕雅(北畠顕泰の子)から偏諱を受けて正顕と改名し、伊勢楠木氏(北勢四十八家楠家)の祖となった[1]。次男の正堯は丹波国に逃れたが、その後の詳細は不明[1]。正勝の嫡孫で伊勢楠木氏第2代当主の正重は、武将ではなく刀工として活躍し、伊勢の名工村正の高弟になった[1]。天下三名槍の一つ蜻蛉切などを製作したとされる刀工正真も伊勢楠木氏の一員である[1]。正重の弟の正威は、禁闕の変に参加し後南朝のために三種の神器を奪ったが、討死している[1]。第7代当主楠木正具は、織田信長の伊勢侵攻とたびたび戦っている[1]。, 伊勢楠木氏の庶流として木俣氏があり、木俣守勝は徳川家康に仕え、のち彦根藩井伊家の筆頭家老となった[9]。その功績から、木俣氏は明治維新後には男爵に叙されている[9]。ただし、守勝には実子がなく、養子の守安が木俣氏を継いだため、現在の木俣氏本家は正勝と血筋上の繋がりはない。その他、伊勢楠木氏の後裔を自称する氏族として、山下氏(アラビア石油創業者山下太郎の氏族)[25]や高楠氏(仏教学者高楠順次郎が婿入りした豪族)[26]などがある。, 『後太平記』は、正勝の戦術的才能を、劇中の山名氏清の口を借りて太公望にも匹敵すると高く称賛しているものの、その戦略レベルでの手腕については、劣勢のときは守りを堅くするべきなのに、逆転を狙って奇策に奔るあまり負けてしまったのは愚かだと、痛烈に批判している[2]。一方、19世紀の文筆家武田交来(松阿弥)は、4倍の兵力差ながら鬼謀をもって氏清と渡り合った点を指摘し、結果として負けたとはいえ、正勝の智勇は祖父・正成にも決して劣るものではなかったと弁護し、正勝を日本の名将60余人の一人に数えている[27]。, 正勝は江戸時代の小説でも取り上げられ、北朝に帰順した正儀との父子対決が描かれた[28]。都賀庭鐘『莠句冊』(天明6年(1786年))や曲亭馬琴『松染情史秋七草』(文化6年(1809年))などに正勝が登場し、特に『松染情史』の主人公は正勝の甥(弟・正元の子)という設定である[28]。, 明治維新後の大日本帝国下では、皇国史観に基づき、正勝の忠臣としての側面が強調された[29]。大正3年(1914年)11月大嘗会で、正勝は贈正四位を、また弟の正元は贈従四位を追贈された[10]。, 奈良県の十津川村には正勝の墓所と伝承が残る[4]。この墓所がいつごろからあるのか不明だが、明治36年(1903年)の 『楠氏遺蹟志』で既に紹介されており、その時点では正勝の弟の正元の追福の墓も並置されていたらしい[4]。また、同書の著者ははじめ墓所の場所がわからず、吉野神宮の堀宮司に尋ねたとあるから、明治36年の時点ではまだ観光地として整備されていなかったようである[4]。十津川村の伝承では、没年日は応永11年(1404年)、または応永18年(1411年)1月15日とされる[要出典]。 楠木正成玄孫であり楠木正重としては、室町時代、楠木氏の棟梁。楠木氏嫡流伊勢楠木氏第2代当主で 正成三男で楠木氏棟梁だった正儀の曾孫としての名門の家系を有す刀鍛治となっています。 ・後醍醐天皇から、菊花を杯に浮かべたものを押し頂いた正成が「これで菊水を旗紋と致します」と言った, 歴史ライター、商業コピーライター

関連記事 >>>> 「楠木正成とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】」, 関連記事 >>>> 「【鎌倉時代】に活躍したその他の歴史上の人物はこちらをどうぞ。」. 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku. 楠木正成とは、鎌倉時代末期に「後醍醐天皇」を補佐した名将。 「北条一門」が支配する鎌倉幕府。 鎌倉幕府の圧政に民衆が苦しんでいた時、後醍醐天皇は「打倒・北条一門」を掲げて挙兵(元弘の乱) しかし後醍醐天皇の兵力は「1000」以下。 対して鎌倉幕府軍は「数十万」だったと言われています。 敗北必至の絶体絶命の状態で、後醍醐天皇は夢をみました。 二人の菩薩の御使いが、後醍醐天皇の前に現れ、こう言ったのです。 『木の南』・・・つまり『楠(くすのき)』 この夢をみた後醍醐天皇は … 楠木正成の子孫達は、昭和時代に楠公精神を伝えるために「楠木同族会」が設立されています。現在でも湊川神社管理や支援を行っているそうです。著名な楠木正成の子孫に、「山下太郎」がおり、アラビア石油社長に就任しています。 楠木正成に影響を与えた人物は? 楠木正成が忠義を尽く� 鎌倉幕府成立に貢献し、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、後醍醐天皇に仕えた天才武将として知られる, 残念ながら楠木正成の出自についての決定的な史料はありませんが、いくつかの説をご紹介します。, それは、正成にゆかりのある湊川神社に残されている写経した『法華経』に「橘朝臣正成」との正成自筆の記録があり、彼が橘氏の後裔こうえいを名乗っていたからです。, これを信じるならば、伊予水軍を統括していた越智おち氏の分家の伊予橘氏で、藤原純友ふじわらのすみともを討ち取った橘たちばなの遠保とおやすの末裔の可能性もあります。, しかし、楠木氏の系図は、正成が登場するまでは史料に食い違いがあって明確ではありません。, 正成は同様に鎌倉幕府倒幕に貢献した足利尊氏や新田義貞のように源氏の血筋を引く武将たちに比べると、身分はずっと低かったのです。, 正成の兄・俊親は、系図上のみの存在になっており、正成が楠木氏を率いて戦闘に参加していたことからも、俊親が実在の人物だったとしても、若くして亡くなったか隠居していたと考えられます。, 正儀の息子つまり正成の孫の正勝やその子孫たちは南北朝が統一された後も、北朝を擁する室町幕府への対抗勢として戦いました。, 能楽の家元として知られる観世家かんぜけの観阿弥かんあみの名を耳にしたことはありませんか?, 戦後になって、観阿弥の祖父が忍者でお馴染みの伊賀の服部はっとり氏一族の出身で、且つ母親が正成の父親の娘、つまり正成の姉妹だという記録が発見されました。, 室町時代に将軍・足利義満のために能を演じることになった観世家は、足利家の祖先である足利尊氏と敵対した楠木正成との血縁関係を示す系図を隠す必要がありました。, そのため「芸能の系譜を表わした系図」と、「本当の血統を示した系図」の2つを使い分けており、混乱が生じていたのですが、この発見により日本の伝統文化である能楽に楠木氏が関係している可能性は高まりました。, 南北朝時代が北朝方の勝利で終了し、室町幕府が成立すると、南朝方で活躍した楠木正成は以降朝敵ちょうてき扱いとなっていました。, しかし、1559年には正親町天皇おおぎまちてんのうから朝敵を免じられることになりました。, 1651年の慶安の変は由井正雪ゆいしょうせつによって起こされましたが、彼の妻は、楠木正虎の孫娘だと言われます。, 1935年には、正成を祀る湊川神社に「楠木同族会」という正成の血を引く人々の親睦会が誕生。, 初代会長は、伊勢楠木氏傍系子孫とされるアラビア石油創業者の山下太郎氏(楠木正成の子孫である楠木正具まさともの末裔)でした。, ・菊紋を天皇より下賜された正成が、恐れ多いとして下半分を流れる水に変えて、菊の花が川に流れるような美しい菊水紋に変えた, 信貴山の麓にある平群町へぐりちょうの朝護孫子寺ちょうごそんしじには、「元弘元年(1331年)9月10日」の銘が入った「菊水の旗」が保管されています。, 「湊川の戦い」を描いた資料にも菊水紋の御旗を上げた楠木正成が描かれ、正成が愛用した家紋であることには違いありません。, 太平洋戦争の頃には、楠木正成の天皇に対する忠誠心と共に、菊水紋も皇国思想に利用されました。, 絶対不利な戦いに挑み、散って逝った楠木正成の死も、彼の生き方が太平洋戦争での特攻作戦に使用されてしまったことも、日本の歴史に刻まれた紛れもない事実です。, 今回は楠木正成を中心とする楠木氏の祖先と子孫について、また楠木氏の家紋「菊水」についてご紹介しました。, 楠木正成の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。 また第2代当主正重が千子村正の門下に入って刀工になるなど細々と活動を行っていた[54]。 兵庫県, 池田市, 観光・歴史, 昨日、何気なく神戸に行ってみようかなぁ♪と思い立ち中岡さんに「さて(^^) 私は神戸のどこに行ったらいいでしょう?」と相変わらずのんきなことを聞いたら「湊川神社か神戸ステーキやな」というお答え。ふーん・・・とグーグル先生に場所を教えてもらって行ってきましたのです。いつも仲良しな♪チームなかよし♪の私達♥さて、楠木正成をご存じでしょうか?私は正直、あまり知らなかったのですが西郷隆盛や、坂本龍馬などなどが崇拝していた鎌倉時代の武将なのですそして!びっくり仰天(°°)したのが!!池田市と楠木正成はものすごーく深いかかわりがあったのです!湊川神社というのが、楠木正成の最期の地なのです(^^)/湊川神社=楠木正成ということも知らなかったこっぱずかしい私 テヘペロ(^^)てっとり早く言うと楠木正成の孫が、池田氏に養子に迎えられ池田城主の池田教正になったのです!*・゚゚・*:.。..。. しかし、第7代当主楠木正具が1576年天王寺の戦いで戦死、次いで第8代当主楠木正盛(盛信とも)が1584年小牧・長久手の戦い加賀野井城で戦死したことで絶えた[54]。 楠木正成の直径子孫は誰ですか? 神戸市の湊川神社に楠木同族会があります会長は政治家の綿貫民輔氏です(もちろん押しかけ会長です)会費3,000円で誰でもホイホイ入れます

概要. 木俣氏(木俣守勝など。維新後は木俣男爵家)は伊勢楠木氏の傍系[55](ただし、守勝の後を養子が継いだ為、血筋では繋がっていない)。またアラビア石油創業者山下太郎[56]や、伊勢高楠家(仏教学者高楠順次郎が婿入りした家)が第7代当主正具の後裔を称する[57]。, 明治政府は、南朝の功臣の子孫にも爵位を授けるため、正成の子孫を探した。正成の末裔を自称する氏族は全国各地に数多く存在したが、直系の子孫であるかという確かな根拠は確認することができなかった。このため、新田氏、菊池氏、名和氏の子孫等は男爵に叙せられたが、楠木氏には爵位が与えられなかった。その後、大楠公600年祭(昭和10年)を前後して楠木氏の子孫が確認され、湊川神社内に楠木同族会が組織されて現在に至っている。初代会長は、伊勢楠木氏傍系子孫とされるアラビア石油創業者の山下太郎である[56]。, 比較をわかりやすくするため、より歴史的事実に近いと思われる記述と、『太平記』によって世間に流布している記述を並列して示す。『太平記』が出典である場合、「出典」欄には巻数から記す。『太平記』章名は原則として天正本、そのため流布本と違う場合がある。『太平記』は月日の錯誤が多く、特に元弘2年(1332年)の正成再挙兵を8ヶ月も前倒ししている。ただし、元弘の乱の始期と終期(鎌倉幕府滅亡)、正成の命日は他の文献と一致する。, 『菊池武朝申状』(弘和4年(1384年)7月日)によれば、武朝の曽祖父の菊池武時が元弘の乱で戦死した後、その論功行賞の場で、正成は自らの功績を誇らず、他人である武時の功を強く推薦したという[187]。曰く、元弘の乱では忠烈の者も労功の輩も多いが、みな生き長らえた者である[187]。しかし、武時入道ひとりは勅諚によって落命した者である[187]。忠厚第一とするのは当然ではないか、と論じた[187]。そのため、正成の主張を後醍醐天皇は聴き入れたという[187]。, 上の「忠厚」という語については、平田俊春「楠公の戦死に関する学説について」(1940年)は「忠義」の意に解しているが、今井正之助「解説 正成討死をめぐる諸説と正成の出自」(2007年)は、『太平記』等の当時の諸書での用例を考えるなら、ここでいう「忠厚」とは「忠功」[注釈 14]つまり(戦での)「功績」のことであろうと指摘している[187]。, 南朝寄りの古典『太平記』では正成の事跡は強調して書かれているが、足利氏寄りの史書である『梅松論』でも正成に対して同情的な書き方をされている。理由は、戦死した正成の首(頭部)を尊氏が「むなしくなっても家族はさぞや会いたかろう」と丁寧に遺族へ返還しているなど、尊氏自身が清廉な彼に一目置いていたためとされる。, 今日でいうゲリラ戦法を得意とした正成の戦法は、江戸時代に楠木流の軍学として流行し、正成の末裔と称した楠木正辰(楠木不伝)の弟子だった由井正雪も南木流軍学を講じていた。その他、応仁の乱前後から正成著と称する偽書の軍学書が多く作られ、伊藤博文も偽書の一つ『雑記』の古本を秘蔵し、のち末松謙澄子爵が入手して称賛しており、室町時代から明治初期に至るまで影響は大きかった[189]。, 楠木正成は、既に古典『太平記』巻16「楠木正成兄弟以下湊川にて自害の事」において、三徳兼備の和朝最大の武将として評価されている。南北朝分裂以降、仁が無い者は北朝に寝返り、勇が無い者は死を恐れてかえって死罪に合い、智が無い者は時流の変遷を理解できず道理のない振る舞いばかりしていたが、そのような中、ただ一人楠木正成のみが智・仁・勇の三徳(『中庸』で「天下の達徳」とされる儒学最高の理想)を兼ね備え、古今これほど偉大な死に様をした者はいない、と同書は評価している。, 正保2年(1645年)に活字本が刊行された『太平記評判秘伝理尽鈔』は江戸時代に軍学書のベストセラーとして広く読まれたが、『太平記』の正成賛美を受け継ぐ傾向が強く、正成が「坂東一の弓取り」宇都宮公綱を計略で撤退させるだけで直接対決しなかったことについても、出典の怪しい逸話を引いて、優れた将同士が直接戦えば双方に被害が甚大だったであろうから戦を仕掛けなかったのだ、と正成が弁解する話を伝えるなどして弁護している[4]。また、「正成は多聞天王の化生(軍神の化身)ではなく、智・仁・勇を極めただけの人間だ」という論に対し、「もともと智が無かった者でも、その後に学問を好めば智者と呼ばれるように、(三徳を極めた人間こそが)多聞天にして聖人なのだ。正成には敵を退けて朝家を守護したという事実があるのだから、それは多聞天が帝を守護したのと違いがあろうか」という反駁で総括している[4]。, 江戸初期の儒学者は中国の人物を高く評価する傾向にあり、山崎闇斎『大和小学』(明暦3年(1657年))は、前漢の張良、蜀漢の諸葛孔明、唐の郭子儀を三徳に近い中国史の名将とし、日本の楠木正成は孔明の次ぐらいであって、これを三徳兼備などと称するのは『中庸』を読んだことがないのだろう、と評している[4]。とはいえ、日本最高の名将が楠木正成であるという前提は、『太平記』から引き続いている[4]。, こうした江戸の儒家の影響を受けて、寛文5年(1668年)に江島為信が著した軍学書『古今軍理問答』は、『太平記』の流れを組む正成神聖視から離れ、正成を「智謀」のある大戦術家・大戦略家とはしながらも、「三徳兼備」という聖人評価については「孔子ですら智仁勇を自称せず、まして日本は夷国であって人の気質も偏屈で、賢人すらいない。楠木正成は日本国内においては無双の英雄の士ではあるが、智仁勇というほどではない」としている[4]。また、『太平記評判秘伝理尽鈔』の出所不明の逸話を正し、その戦術・戦略についても、挙兵を急ぎすぎて赤坂城の用水設計に難があった点など、非がある部分については非を責めている[4]。ただし、総合評価としては、正成を日本第一の武将とする結論はやはり変わらない[4]。敵を見てその戦術を転化する変幻自在の謀計や、この時代にあって兵糧・用水など兵站の確保を重要視したこと、千早城という天険の要害を見出した築城技術などを評価している[4]。『古今軍理問答』は、『保元物語』『平治物語』『平家物語』『甲陽軍鑑』なども論じているが、それらの主要人物である源義朝・源義経・武田信玄・上杉謙信などを差し置き、正成を「日本開闢以来の名将」の異名で呼んでいる[4]。, 寛文12年(1672年)、陽明学者熊沢蕃山は、甲州流軍学、越後流軍学、信州流軍学のうちどの軍法が優れてるのか、との問に、個人の将として優れているのは越後の景虎(ここでは上杉謙信の初名)、技術で優れているのは甲州・信州としつつも、戦国時代の軍法は小競り合いの類である、小事を知るには良いが、義経・正成・義貞(の軍法)の後に本当の合戦というのは存在しない、と答えている(『古事類苑』「兵事部」巻1に引く『集義和書』巻11)[190]。, 日夏繁高『同志茶話』は、源義経を「今古無之名将」、楠木正成を「古今無双の良将」と、日本史上の名将双璧とするが、正成が義経の兵法を研究したとする『太平記評判秘伝理尽鈔』の説については疑っている(『古事類苑』「兵事部」巻1に引く『同志茶話』巻6)[191]。また、正成の千早城の籠城戦や藁人形を使った謀計などを評価しつつも、二人の名将は神速奇謀を主とした将であり、手本としてたやすく学べるものではない、と、楠木正成の戦法を取り入れたと自称する楠木流軍学などを批判している[191]。, 『国史大辞典』(1997年)でも、1336年の豊島河原合戦で勝利に沸き尊氏は再起不能であると楽観論を述べる後醍醐天皇軍に対し、尊氏はすぐに再挙して東上するであろうと予見して苦言を呈したことについて、「軍略家としての非凡な資質をうかがうことができる」と評されている[1]。, 江戸時代には水戸学の尊皇の史家によって、正成は忠臣として見直された。会沢正志斎や久留米藩の祀官真木保臣は楠木正成をはじめとする国家功労者を神として祭祀することを主張し、慶応3年(1867年)には尾張藩主徳川慶勝が「楠公社」の創建を朝廷に建言した[192]。長州藩はじめ楠公祭・招魂祭は頻繁に祭祀されるようになり、その動きはやがて後の湊川神社の創建に結実し、他方で靖国神社などの招魂社成立に大きな影響を与えた[192]。, 明治になり、南北朝正閏論を経て南朝が正統であるとされると「大楠公」と呼ばれるようになり、講談などでは『三国志演義』の諸葛孔明の天才軍師的イメージを重ねて語られる。また、皇国史観の下、戦死を覚悟で大義のために従容と逍遥と戦場に赴く姿が「忠臣の鑑」、「日本人の鑑」として讃えられ、修身教育でも祀られた。, 佩刀であったと伝承される小竜景光(東京国立博物館蔵)は、山田浅右衛門の手を経て、明治天皇の佩刀となった。明治天皇は大本営が広島に移った時も携えていたとされる。, 正成の忠臣としての一面を過剰に強調することの問題点は、それがしばしば建武政権と南朝の政治への低評価と結びつくことである[193]。, 戦前まで存在した南朝正統史観は、後醍醐天皇・建武政権・南朝を無条件に讃えた史観であると誤解されることがあるが、実際は後醍醐が賛美されたのは大義名分論の側面のみであり、政治的には無能で不徳な君主として扱われていた[194]。こうした暗君像は、軍記物語『太平記』(1370年ごろ完成)などに端を発する[195]。そして、後醍醐は「暗君」であるにも関わらず、三種の神器を持つ正統な君主であるがため、愚直に仕えざるを得なかった「忠臣」の悲哀が、判官贔屓の形で共感を呼んだのである[194]。, このような「後醍醐=暗君、忠臣=正義」の構図[194]は、戦後も前半部分は依然として続き[196]、後醍醐天皇・建武政権の特異性が誇張されたことで、鎌倉時代と室町時代の政治にどのような繋がりがあるのかの解明を困難にさせた[197]。しかし、2000年前後からの実証的研究では、建武政権の政策・法制度は前後の時代との連続性が見られることが指摘され、後醍醐天皇の旧来の暗君像は徐々に改められる方向にある[198][199]。, 戦後は、価値観の転換と歴史学における中世史の研究が進むと悪党としての性格が強調されるようになり、吉川英治は『私本太平記』の中で、戦前までのイメージとは異なる正成像を描いている。, 鎌倉時代末期〜南北朝時代における「悪党」とは「わるもの」という意味ではなく、強大な経済力と武力を背景に、旧体制である荘園領主・幕府に反抗した新興勢力のことである(よって、山僧や神人など「邪悪」ではない者も「悪党」には含まれる)[200]。鎌倉時代末期〜南北朝時代は社会の下部構造である民衆が初めて歴史の表舞台に台頭した時期であり、その下部構造から生じた悪党はこの世代の社会を牽引した、時代の主役であった[201]。公家や武家といった旧時代の支配者たちは「血」を重視し血縁組織を作り上げたが[201]、楠木正成ら交通の要衝路に住む悪党は「地」という革命的な概念を持ち込んで地縁組織を支配した[200]。正成は「摂津〜河内〜和泉〜大和〜伊賀〜伊勢」という通商ラインを抑えたことで、六波羅探題と鎌倉幕府の連携を分断することに成功し[201]、当初数百倍の戦力差があった元弘の乱に戦略的勝利を収めた。権威を盲信するのではなく、知恵と新しい発想をもって時代を切り開く、いわば時代の異端児・革命児としての楠木正成像である。, ただし、「悪党」を「社会の秩序を乱す者ないし悪事をなす集団」と誤解で一般的語彙に解釈されて問題となることもあり、NHKのテレビ番組『堂々日本史』において「建武新政破れ、悪党楠木正成自刃す」というタイトルで放送された際、湊川神社がNHKに抗議する事件が起きている[202]。, 前節までの評価は、楠木正成という人間を一つの型に押し込めるものであった[203][204]。しかし、その後の研究の進展により、正成は本質的に多才・多面的な人間であったことが明らかになってきている[205][203][204]。, 生駒孝臣によれば、正成のような畿内の武士は、複数の側面を持つことが普通であったという[203]。つまり、正成は、交通・流通路の支配者として財を稼いだ大商人であり、朝廷・後醍醐天皇に仕えた廷臣でもあり、幕府の御家人でもあり、かつ幕府から訴追された悪党(反抗者)でもある[203][204]。どれか一つが正しい正成像なのではなく、むしろこれら全ての顔を持っているという点が正成の実像なのであるという[203][204]。, また、正成は、建武政権下で、名和長年と共に、最高政務機関である記録所の寄人(職員)に大抜擢された[205]。後醍醐天皇の人事政策は、破天荒と言う俗説に反し実際は穏健なものが多いが、正成の記録所への登用は例外的な抜擢人事である[206]。森幸夫によれば、一般的には武将としての印象が強い正成だが、官僚的能力に優れた中原氏や小田時知、伊賀兼光[注釈 15]といった他の寄人の顔触れを見る限り、正成も実務官僚として相応の手腕を有していたのではないか、という[205]。, 軍記物語『太平記』流布本巻3「主上御夢の事附楠の事」では、楠木正成と後醍醐天皇の出会いは以下のように描かれる[207]。しかし、歴史的事実としては、『天竜寺文書』により、遅くとも元弘の乱発生以前である元徳3年(1331年)2月には、正成が後醍醐天皇方に付いていたことが明らかである[208]。, 元弘の乱が発生し、天皇が笠置山に籠ると、笠置寺の衆徒や近国の豪族らが兵を率いて駆けつけてきたが、名ある武士や、百騎、二百騎を率いた大名などは一人も来なかった[207]。そのため、後醍醐天皇は皇居の警備もままならないと不安になり、心配になって休んだ際に夢を見た[207]。その夢の中では、庭に南向きに枝が伸びた大きな木があり、その下には官人が位の順に座っていたが南に設けられていた上座にはまだ誰も座っておらず、その席は誰のために設けられたものなのかと疑問に思っていた[207]。すると童子が来て「その席はあなたのために設けられたものだ」と言って空に上って行っていなくなってしまった。, 夢から覚めて、天皇は夢の意味を考えていると「木」に「南」と書くと「楠」という字になることに気付き、寺の衆徒にこの近辺に楠という武士はいるかと尋ねたところ、 河内国石川郡金剛山(現在の大阪府南河内郡千早赤阪村)に橘諸兄の子孫とされる楠木正成(楠正成)という者がいるというので、後醍醐帝はその夢に納得し、すぐさま楠木正成を笠置山に呼び寄せる事にした[207]。万里小路藤房が勅使として笠置山から河内に向かい、正成の館に着いてその事情を説明した[207]。すると、正成は「弓矢取る身であれば、これほど名誉なことはなく、是非の思案にも及ばない」と快諾した[207]。そして、正成は人に気が付かれないようにすぐさま河内を出て、笠置山に参内した[207]。, 正成は後醍醐天皇から勅使派遣より時を置かずに参内したことを褒められ、そのうえで正成がどのような計画を持ち、勝負を一気に決めて天下を太平にするのかを問われた[207]。正成はこの問いに対し、「幕府の大逆は天の責めを招き、衰乱の機会に乗られて天誅が下されます。その好機なら必ず滅ぼすことができます。天下草創には武略と智謀の2つがあります。勢いに任せて合戦を行えば、たとえ60余州の軍勢をもってしても武蔵・相摸の領国に勝利を得ることはできないでしょう。もし何らかの策を用いて戦えば、幕府は守勢に回って欺きやすくなり、怖れるに足らなくなるでしょう。合戦の常は個々の勝敗にこだわらないことです。(たとえ戦いで敗れたとしても)正成がたった一人生存していれば、天皇の聖運が必ず開けると御思い下さい」と述べた[207]。そして、正成は河内に戻り、赤坂城(下赤坂城)で挙兵した[209]。, 『太平記』流布本巻16「正成兵庫に下向の事」が描く物語によれば、建武の乱で多々良浜の戦いに勝利した足利方が再び京に迫まり、義貞が兵庫に退却したという早馬が京へ届くと、後醍醐天皇は正成を呼び出し、義貞とともに尊氏を迎え撃つように命じた[48]。正成は帝に対し、「尊氏の軍勢は大軍であり、疲弊した味方の小勢でまともに正面からぶつかれば、決定的な負け戦になるでしょう。ここは新田殿を京に呼び戻し、帝は以前のように比叡山に臨幸して下さい。私が河内に戻って河尻(淀川の河口)を抑え、京に入った足利軍を新田軍とともに前後から兵糧攻めにすれば、敵兵の数は減ることでしょうし、我々の軍勢には味方が日々馳せ参じるでしょう。その時を狙い、新田殿が比叡山から、私が搦手より攻め上れば、朝敵を一戦で掃滅すること可能かと思えます。新田殿もきっとこの作戦に同意するでしょう」と進言した[48][45]。この策は正成にとっては、比叡山に朝廷を一時退避して足利軍を京都で迎え撃つという、現実的かつ必勝の策でもあった。, この正成の進言に対して、諸卿らは「確かに戦に関しては武家に任したほうが良い」と、納得しつつあった[48]。だが、坊門清忠が「帝が都を捨てて一年に二度も臨幸するのは帝位そのものを軽んずる」とし、「味方の軍勢は少数ながらも、毎回大敵を滅ぼしてきた。それは武略が優れていた訳でもなく、聖運の天に通じたから」だと述べ、正成は即刻義貞のいる兵庫に向かうべきと主張した[48][210]。, その結果、後醍醐天皇は正成の意見ではなく、坊門清忠の意見を尊重した[48]。正成は今更反論しても仕方がないと考え、朝議の結果を受け入れた[48]。, 以上は「流布本」の描く筋書きであるが、この物語は写本の系統によって異同がある[211][212]。特に、古態本(『太平記』の原型に近いとされる写本)の一つである「西源院本」では、坊門清忠は登場しない[211]。また、「神宮徴古館本」では、後醍醐への憤りから「智謀叡慮で勝つのを望まず、無二の戦士をあえて大軍にぶつけるなどと仰るなら、私は義を重んじる忠臣勇士なので、お望み通り死んでみせましょう」と皮肉を述べるなど、忠臣勇士とは言いがたい描写がされている[212]。, 軍記物語『太平記』巻16「兵庫海陸寄手事」では、湊川の戦いで、正成は他家の軍勢を入れず、7百余騎で湊川西の宿にて布陣し、陸地から攻めてくる敵に備えていた[213]。正成も義貞も足利方の大軍に対して少しもひるむことはなかったという[213]。, 続く流布本巻16「正成兄弟討死の事」では、連合軍は多勢に無勢であったため、正成と義貞の軍勢は引き離されてしまった[214]。正成は正季に「敵に前後を遮断された。もはや逃れられない運命だ」と述べ、前方の敵を倒し、それから後方の敵を倒すことにした[214]。, 正成は700余騎を引き連れ、足利直義の軍勢に突撃を敢行した[214]。菊水の旗を見た直義の兵は取り囲んで討ち取ろうとしたが、正成と正季は奮戦し、良き敵と見れば戦ってその首を刎ね、良からぬ敵ならば一太刀打ち付けて追い払った[214]。正成と正季は7回合流してはまた分かれて戦い、ついには直義の近くまで届き、足利方の大軍を蹴散らして須磨、上野まで退却させた[214]。直義自身は薬師寺十郎次郎の奮戦もあって、辛くも逃げ延びることができた[214]。, だが、尊氏は直義が退却するのを見て、「軍を新手に入れ替えて直義を討たせるな」と命じた[214]。そのため、吉良氏、高氏、上杉氏、石堂氏の軍6千余騎が湊川の東に駆けつけて後方を遮断しようとしたため、正成は正季ともに引き返して新手の軍勢に立ち向かった[214]。, 6時間の合戦の末、正成と正季は敵軍に16度の突撃を行い、楠木軍は次第に数を減らし、ついに73騎になっていた[214]。疲弊した彼らは湊川の東にある村の民家に駆け込んだ[214]。, 正成は自害しようと鎧を脱ぎ捨てると、その体には合戦での切り傷が11か所にも及んでおり、ほか72人もみな同様に切り傷を負っていた[214]。正成は正季と共に自害して果て、橋本正員、宇佐美正安、神宮寺正師、和田正隆ら一族16人、家人50余人もまた自害し、皆炎の中に倒れ込んだ[214]。, 軍記物語『太平記』流布本巻16「正成兄弟討死の事」によれば、湊川の戦いでの自害の直前、正成は弟の正季に、次はどのように生まれ変わりたいか、と尋ねた[214]。正季はからからと打ち笑って、「七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存じ候へ」(「(極楽などに行くよりも)7度人間に生まれ変わって朝敵を滅ぼしたい」)と述べた[214]。正成は嬉しそうな表情をして、「罪業深き悪念なれども我もかやうに思ふなり」(「なんとも罪業の深い邪悪な思いだが、私もそう思う」)と同意し、「いざゝらば同じく生を替へて、此本懐を達せん」(「さらばだ。私も同じく生まれ変わり、滅賊の本懐を達そう」)と兄弟で差し違えた、と物語られる[214]。, こうして七生滅賊という仏教的に罪深い思想に囚われた正成は、流布本巻23「大森彦七が事」で怨霊として再登場して室町幕府を呪い、最後は仏僧が読経する『大般若経』の功徳によって調伏されることになる[215]。, しかし、歴史的人物としての正成は、 『法華経』の写経(『今田文書』(湊川神社宝物))[原文 1]や、その裏書からわかるように、仏教への帰依が篤く、また深い知識を持つ人物だった[216]。したがって、『太平記』に描かれる「七生滅賊」の物語は、本来の正成の人となりとは反している[要出典]。, 上横手雅敬の「楠木正成(二)――天下、君を背きたてまつる」(『太平記の世界』(日本放送出版協会、1987年)所収)や、中村格の「天皇制教育と正成像――『幼学網要』を中心に」(『日本文学』39-1(1990年)所収)および今井正之助 などの研究では、本来、『太平記』の「七生滅賊」(あるいは「七生滅敵」)は中世的な怨念観を表現するための呪いの言葉であり、後段の大森彦七伝説と組で考えるべき物語であったとされ[217]、数百年後、近代に入り、国家への忠誠心を示す「七生報国」という言葉に置き換わったとみられている[217]。しかしながら、大正時代に至っても同5年(1916年)に、大正天皇は『楠木正成』と題した七言絶句の御製にて「七生報国」ではなく「死に臨んで七生滅賊を期す 誠忠大節斯の人に属す」と表現し、その徳を讃えている[218]。, 「七生報国」の語の用例は、遅くとも『萬朝報』明治37年(1904年)4月3日に、海軍軍人の広瀬武夫の辞世の句として「七生報国 一死心堅 再期成功 含笑上船」という漢詩が載せられたことまで遡ることができる[219]。, 軍記物語『太平記』の正成は、儒教的には三徳兼備の聖人として描かれるが、七生滅賊の節で述べたように、仏教的には「七生滅賊」の罪業を願った悪人として描かれる。そして、流布本巻23「大森彦七が事」では怨霊として登場する[215]。, 伊予国(愛媛県)の大森盛長(通称を彦七)という人物は、『太平記』の劇中では、室町幕府の有力武将細川定禅の部下として、湊川の戦いで楠木正成と戦い、腹を切らせた猛将であると設定されている[215]。また、大森氏は猿楽(後の能楽)を嗜む一族でもあったという[215]。, 興国3年/暦応5年(1342年)春より少し前のある夜、盛長が猿楽の楽屋に行く途中、山隙の細道に数え17歳から18歳程度(満15歳から17歳程度)の美女が佇んでいた[215]。か弱い姿の美女に心惹かれた盛長は、猿楽の桟敷席までお連れしましょうと申し出て、背中に背負って歩き始めた[215]。すると、たちまち女の口は裂け、角が生えて、怪物となり、盛長を空中に連れ去ろうとしたが、盛長が必死に抵抗し部下も駆けつけたので、怪物は消滅した[215]。猿楽は延期となった[215]。, 再開された猿楽の当日、再び化け物が観客の前に現れ、楠木正成を名乗り、朝敵滅賊の野望を果たすために、修羅の眷属となり、「貪」「瞋」「癡」の三毒の魔剣を探し求めていると明かす[215]。このうち、「貪」の刀は日吉大宮のもとにあったが、怨霊正成は日吉の神(大己貴神)に仏法を教える引き換えに手に入れた[215]。「瞋」の刀は足利尊氏が所持していたが、怨霊正成は尊氏の寵童(愛人の少年)に変装して奪った[215]。残る「癡」の刀は、もと悪七兵衛景清の佩刀であったが、壇の浦の戦いで海に落ちたのを、イルカが飲み込んで讃岐国(香川県)の宇多津沖まで運びそこで死んだが、100年余りのちに漁師の網に引っかかって地上に戻り、いま盛長が持つ刀がそれであるのだという[215]。この三毒の魔剣が揃った時、尊氏の世は終わると言い、盛長から「癡」を奪おうとする[215]。, この後、たびたび盛長と怨霊正成の対決が行われ、ついには、後醍醐天皇・護良親王・新田義貞・平忠正・源義経・平教経の怨霊も正成に加わって大きな戦いとなる[215]。武力に頼っても陰陽師に頼っても正成の怨霊を打ち倒すことはできなかったが、盛長の縁者である禅僧に調伏を頼んだところ、『大般若経』の読経が行われ、その功徳によってついに正成の怨霊を鎮めることができた[215]。まことに仏法の鎮護国家の力は素晴らしい、と『太平記』作者(円観ら)は称える[215]。, 興国3年/暦応5年(1342年)春、盛長は以上の次第を足利直義(尊氏の弟で当時の事実上の最高権力者)に伝え、さらに天下の霊剣として、「癡」の刀を献上した[215]。この話に感じ入った直義は新しい拵えを作らせ、「癡」を自らの蔵刀とした、と描かれる[215]。, 郡司正勝『かぶきの発想』(1959年)の推測によれば、上記の物語は、もともと怨霊鎮撫のために書かれた猿楽の台本だったのではないかという[220]。また、「流布本」では正成を調伏するのは禅宗の僧とされるが、砂川博『軍記物語の研究』(1990年)によれば、本来は西大寺系の律宗の僧という設定ではないかという[221]。樋口州男『日本中世の伝承世界』(2005年)の主張によれば、上記の話はもともと伊予で大森氏によって興行されていた物語であり、この地方での南朝敗退を説明するために、『太平記』作者が取り込んだのではないかという[222]。新井孝重は、大森氏が正成討伐に関わったことは歴史的事実であろうと考え、正成の勢力基盤であった民間武装民に流布していた天下転覆の怨霊伝説を、敵方である大森氏が怨霊を恐れ、怨霊鎮魂譚に組み替えたのではないかと推測している[223]。, 明治・大正時代の織田完之『楠公夫人伝』による推説では、正成の妻を南江久子(みなみえ ひさこ)としているが、他に典拠がない[224]。「観心寺過去帳」にその論拠があるという俗説も唱えられたことがあるが、宮内庁書陵部写本の「観心寺過去帳」に楠木氏関係の記事はない[225]。今井正之助によれば、太平記評判書(偽書的な注釈書)の一つ『無極鈔』に正成の舅として登場する、南江正忠(なんごう まさただ)という架空上の人物が久子伝説の淵源ではないかという[225]。, 細川潤次郎「楠氏夫人ノ異聞ノ続」(『東京茗渓会雑誌』126号、1893年)は、「柏原系図」により、万里小路藤房妹の万里小路滋子としたが、同系図は星野恒「楠公夫人ノ異聞問答」(『史学雑誌』5:2、1894年)により偽書と結論付けられている[225]。, 現在でも駿河の国(静岡市清水区)には長崎と楠(古文書では楠木)という地名が隣接して存在している。, 『増鏡』『太平記』も27日説を取るが、『南山錦雲抄』『東寺年代記』は26日、『笠置寺縁起』は29日とする, 兵衛尉は、少尉が従七位上相当で、大尉が正七位下相当、左衛門少尉は正七位上相当。一階か二階の昇進となる。反幕勢力内での昇進のため、幕府側には伝わらなかった。昇進を許可したのが後醍醐天皇か大塔宮かは不明。, 遅くとも建武2年(1335年)8月12日以降、京の決断書の牒文から正成の署名が消える, 「七生」は七度生まれ変わって朝敵を滅ぼすの意味。後代にはこれに「報国」の意味が加わり「七生報国」と呼ばれた。, 『増鏡』「笠置殿に大和、河内、伊賀、伊勢などより兵ども参り集ふ中に、事の初より頼みおほされたりし楠木兵衛正成と云ふ者あり、心たけくすくよかなるものにて、河内国におのが館の辺りを厳めしくしたゝめて、此のおはします所、若し危うからん折は、行幸をもなし聞えんなど用意しけり」, 『増鏡』「中務の御子大塔の宮などは、予てより、こゝを出でさせ給ひて、楠が館におはしましけり」, 『光厳院宸記』元弘元年10月18日裏書条「御事書ヲ以テ仰云、天下未静謐、楠木城合戦落居之程、難給御返事暫可在京旨被之, 『光厳院宸記』正慶元年6月29日条「是自熊野山、帯大塔宮令旨竹原八郎入道為大将軍襲来, 『花園天皇宸記』正慶元年11月15日条「楠木事猶興盛候歟。自昨日門々番衆等著鎧直垂祇候候之間、定子細候歟之由、推量候。只冥助之外、無所憑。関東武士も上洛遅々之間、返々非無怖候。熾盛光法、尤忩々可被始行候歟。以俊禅僧正被申入了。仍承之。此時分、懇祈外、不可有他候乎。風気此両三日得減候也。事々期面候。謹言。」, 『楠木合戦注文』十二月日「一 為楠木被取籠湯浅党交名 安田二郎兵衛尉重顕 阿矢河孫六入道定仏 藤並彦五郎入道 石垣左近将監宗有 生地蔵人師澄 宮原孫三郎 湯浅彦次郎時弌 糸賀野孫五郎」, 甲斐身延山所蔵『金剛集裏書』「九日より京中以外騒動候。阿くた川に朝敵充満し、山崎迄せめ入候間、宇つ宮赤松入道賜打手、早速進返候了。仍仁定寺に構城廓、引籠候を、宇都宮ついで責取、即ち昨日打落頸其数令持参候。是大塔殿御所為と申候也」(「昨日」は12月15日), 『楠木合戦注文』「大手本城平野将監入道既三十余人参降畢。此内八人者逐電、或生捕、或及自害。彼所又以被落之由、閏二月一日風聞。楠木舎弟同比城中在之是非左右未聞」, 『忽那開発記』「建武五戊寅三月小早河民部大夫入道相順・同左近将監景平以下輩起謀反、安芸国沼田庄内、楯籠妻高山之間、為誅伐同七日御発行直附到着抽軍忠後三月十一日楠多聞兵衛殿賜御判。」(閏3月(後三月)の無い建武5年の閏3月に、建武3年に死んだ正成が判を捺しているという奇妙な記事だが、藤田精一は『忽那開発記』に日付の書き間違いが多いことを指摘し、これも元弘3年の後二月(閏二月)の間違いだろうとしている。そして、正成が千早城にいながら他の地域と連絡を取れる手段を持っていたのではないか、と推測している), 『博多日記』三月「二十二日自鎮西関東ニ上ル早馬、雑色ノ五郎三郎下着、金剛山ハ未タ不破、赤松入道可打入京之由、披露」, 備後『因島文書』「度々合戦捨身命、軍忠之刻、去四月三日、同八日、同廿七日等合戦之時、子息已下郎従、討死之条尤以不便次第、所有御感也。早可恩賞者。大塔二品親王令旨如此、悉之以状 元弘三年五月一日 左中将(花押)。備後国因島大主治部法橋幸賀館」(「中」将ではなく「少」将か?), 『紀伊続風土記附録』「爰其身者罷向金剛山城之折節、今年元弘三年五月二日安原卿大楠丸住宅に大塔宮祇候人保田次郎兵衛尉宗顕、生地蔵人師澄以下寄来、令放火之時、彼御下文等悉焼失候畢」(文中に「大楠丸」とあるのは正成ではなく襲撃を受けた栗栖実行の長子の名前), 『真乗院文書』「右助康去年十一月廿八日馳参京都属御手自宇治令参東坂本 同十六日罷向西坂本」(和田助康の軍忠状、御手とは正成のこと), 『忽那重清軍忠状』「同晦日馳向搦手到散々合戦之上、重為四条河原相向朝敵人高橋党、到散々合戦責落畢、次依大将軍仰火口河原在家懸火、次馳向内野責附丹州道追山」(大将軍は, 『和田助康軍忠状』「晦日鴨河原、内野合戦」(和田助康は正成配下だから、地理的に考えると正成が実世と合流して搦手で戦っていたことかがわかる), 河内国天野山金剛寺蔵『釈論』第九愚章、禅恵の記入「同三年正月十日帝落給入御山門、同十六日、日田殿折下京中散々合戦、同廿六日、廿七日、晦日, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/945788, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885211, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/897724, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1915593, https://books.google.com/books?id=uNCICrX8iU4C, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=楠木正成&oldid=80385495, 森正人「1930年代に発見される楠木的なるもの」人文論叢(三重大学)第26号 2009年.

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