73年 )」が、番組史上一例の満点(9999点)を2週連続で獲得するなど番組の立ち上げと隆盛に貢献した[76][36][266][277]。オリコンとともに歌謡界をデッドヒート化させた当番組に於いては、毎回真剣勝負で挑んだ[277]。「僕らは人よりいかに目立つかを考えていた。先物はだいたい僕か沢田研二さんがやっていた」などと話し[277]、「後の世代の人たちは違うかもしれないけど僕らはそう」「人が歌ってるときはステージをじっと見ていてお喋りどころじゃなかった。"あの衣装の生地はいいな"とマネージャーに言ったりして、カメラが振られると談笑しているポーズを取った」などと話している[277]。, 1979年7月1日に発売されたソニーの初代「ウォークマン」は、当初はあまり売れなかったが、西城が上半身裸、短パンでウォークマンを聴きながらローラースケートをしている写真が『月刊明星』1979年9月号(発売は7月末)の見開きページに掲載されたのを機に[419]、各雑誌で取り上げられ、8月に入り各店舗で品切れが続出し、その後の大ヒットに繋がったといわれる[420][421]。, さくらももこの漫画、ちびまる子ちゃんでは、主人公まる子の姉さきこが大の西城ファンという設定があり、漫画・アニメ問わずしばしば西城に因んだ話が登場している。また、作者のさくら自身も西城のファンであった事から、さくら側が西城に依頼する形で、同作のテレビアニメ第1期後半のエンディングテーマ「走れ正直者」の歌唱を担当した[422]。その後、2007年から2008年に放送された同作のテレビドラマ版まるまるちびまる子ちゃんでは、第20回の2時間スペシャルに西城が魚屋の主人「魚辰の辰」役で出演。劇中ではまる子の為に、辰が西城のモノマネで「傷だらけのローラ」を歌うという設定で『西城秀樹がドラマの中で演じたキャラクターで西城秀樹のモノマネをする』という難しいシチュエーションを熱演した。西城の訃報が報じられた際には、さくらはブログで追悼のコメントを記した[423] が、その僅か3ヶ月後に、さくら自身も乳がんの為この世を去った。, 漫画/アニメの西城といえば、取り分け『ちびまる子ちゃん』が有名であるが[424]、1970年後半に『週刊少年チャンピオン』に連載され、一世を風靡した山上たつひこの漫画『がきデカ』の主人公・こまわり君のほぼ相方格だった西城ヨシオこと「西城くん」のモデルは西城である[425]。ほぼ常識人の「西城くん」がこまわり君のボケにツッコミを入れる担当であった[425]。『がきデカ』は他に常識人扱いで、それぞれ名前をもじった山口百恵がモデルの木の内モモ子こと「モモちゃん」、あべ静江がモデルのあべ美智子こと「あべ先生」と、天然少女・風吹ジュンがモデルの木の内ジュンこと「ジュンちゃん」が登場する[425]。西城くんのガールフレンドは「モモちゃん」であった。また同じ『少年チャンピオン』の連載・鴨川つばめの『マカロニほうれん荘』で最も有名なギャグで[426][427]、主人公の一人・膝方歳三の決めゼリフ「トシちゃんかんげきーっ!!」は、西城の「ヒデキ、感激! 荒川 務 76年 西城 秀樹(さいじょう ひでき、1955年〈昭和30年〉4月13日 - 2018年〈平成30年〉5月16日[1] )は、日本の男性歌手、俳優。新御三家の1人。 昨日、ひっさしぶりに聴いてみた そう、... 毎年年末の風物詩にして、お笑い界に生きる若手漫才師の最大の目標といってもいいのが「M-1グランプリ」。 !」と西城をメインに出して名前を叫び、花火が打ち上がる中、出演者全員で繋いだ手を高く上げてステージを退場した[369]。, 西城の訃報が報じられたことを受け、桑田は2018年5月20日放送の自身のラジオ番組『桑田佳祐のやさしい夜遊び』(TOKYO FM)で、西城を追悼するコメントを述べ、ライブでのエピソードや西城の人柄を語ったうえで、生歌のコーナーで「YOUNG MAN (Y.M.C.A. たまにはいいでしょ 代表曲 :「高校三年生」「銭形平次」等 Copyright © CyberAgent, Inc. All Rights Reserved. 加納 竜 「男性アイドル冬の時代」と言われたそうな。(この単語、昨日初めて知った!)

)」は、ステージを降り、砂浜でファン全員で西城の周りを囲み一緒に歌った[315]。「ホップ・ステップ・ジャンプ」のジャケット写真はこの時撮影されたもの[118]。, 1970年代のテレビの歌番組は基本的に生放送・生演奏で[318][319]、出演歌手は番組専属のオーケストラ (フルバンド)のバック演奏で歌っていたが、当時はよりロック色の強い路線だったこともあり、レコードよりもっとハードな音を出したいと[19]、自身の音に対するこだわりをフルバンドの人たちに100%伝えるのは無理があると感じていたため[318]、早く自分のバンドを作りたいという希望があった[43][121][318]。1974年2月に日本武道館で挙行されたフェイセズの来日公演を鑑賞に行った際、その前座でジョー山中らとセッション・バンドで演奏していた芳野藤丸に声を掛け[43][208]、自身のサポートバンドを要請[43][188][250][290][320]。「藤丸BAND」を結成し以降、芳野が「SHOGUN」での活動が忙しくなった1979年まで『夜のヒットスタジオ』などのテレビの歌番組や西城のライブでバックバンドを務めた[42][43][199][208][250][321]。「藤丸BAND」という名称は(仮)の名前だった[121]。, 西城はアマチュア時代と同様、最初からロックバンドをバックに歌うことが希望であったが[318]、駆け出しの身分では自分のバンドを持ちたいとは言えず、実績もある程度のレベルにきてようやく実現できた[318]。「自身のサウンドを創るため、バンドの若い仲間とディスカッションしたい」という希望がようやく叶った[121]。歌番組のフルバンドは全てのジャンルの曲をやらないといけないため、どの曲もテンポ、リズム感が同じで自分なりの匂いを出すことができず、イメージする音と違っていた[318]。しかし当時のテレビ局のスタッフやフルバンドの人たちから「こんなバンド作られちゃ、準備にも音合わせにも時間がかかって迷惑だ」などと何度も嫌みを言われた[318]。逆に自身が実績を積み上げるとフルバンドの方がいい音を出してくれたこともあったが、新人の頃は舐められ、演奏中に居眠りする人もいたという[318]。, 1970年代前半にロックバンドが全国ネットのテレビ番組に出演することはないに等しい状況であったため[169][320]、「後の世良公則&ツイストやもんた&ブラザーズなど、ロックバンド確立の切っ掛けは、藤丸BANDや沢田研二さんの井上堯之バンドが作ったと思う」[318]「音作りなんかもボクや沢田さんが歌謡界を開拓したんじゃないかと思う」と語っている[318]。ダイアモンド☆ユカイは「西城さんは時代が違えば、ZIGGYやレッズみたいなバンドをやってたとおもうよ」、森重樹一は「ロックバンドという選択肢がない時代、プロとして歌うなら歌謡曲の歌手になるしかなかった。それで大きな成功をおさめたんだからね。今、そのすごさがわかるね」などと述べている[290]。, 新御三家の活躍は、男性歌手による歌謡曲のあり方を大きく変えた[260]。長髪で、ロックと距離感の近い楽曲を激しいアクションで歌う彼らの佇まいは、それまで歌番組のメインだったスーツ姿で直立不動の歌手たちとは全く違う様相をしていた。彼らの存在は後の日本のロックにも多大な影響をもたらした[123][179][260]。ことに80年代以降の日本のロックヴォーカリストたちは、新御三家や沢田研二にテレビで触れたことを"音楽のめざめ"とする者が多く、そこから洋楽を含めたロックへと嗜好を広げていったケースが少なくない[196][46][197][199][260][322]。メインストリームに於ける国産ロックヴォーカリストたちのスタイルは、新御三家と沢田研二の4人の要素を様々なバランスで成立させているのである。ことに幼少期から目や耳にしていた彼らの歌唱やステージングのスタイルが、自然に刷り込まれている。中でも西城のヴォーカルスタイルは、大音量で演奏するバンドサウンドに埋もれずに絶叫することを強いられる立場にある後続バンド世代にとっては、ロバート・プラントやイアン・ギランよりもずっと身近な手本であった。「薔薇の鎖」に代表されるマイクスタンドを駆使した派手なアクションに魅了された少年たちは、後にその向こう側にロッド・スチュワートやスティーヴン・タイラーの姿を見つけたのである[260]。週に60本あったといわれる[71] 歌番組華やかなりし70年代から80年代前半にかけて、毎日のようにテレビに出て歌いまくった西城は[48]、"不良の音楽"だったロックを"青春歌謡"として定着させた[41][48][179][202]。自ら創始したマイクアクションに、独特のハスキーボイスでシャウトする姿は、当時のテレビっ子たちに多大なインパクトを与えた[41][48][57][114][197][199][200][202][214][219][248][323][324][325]。女性ファンは勿論、チビッ子たちもヒデキを通じて“ロック”を無意識のうちに体感した[48]。さくらももこが『ちびまる子ちゃん』の中で西城を盛んに取り上げ、それが再評価にも繋がった[198][202]。90年代初頭にヒデキの再ブームがあり[18][194][293]、ヒデキを聴いて育った世代のロック・ミュージシャンが台頭してヒデキへのリスペクトを公表したり[48][293][326]、テレビ業界内にもヒデキを聴いて育った世代の混入率が高くなり[18]、またものまねの恰好のネタだったことから[293]、植木等、美川憲一、山本リンダと共に"復活四天王"とも呼ばれ"トレンドスター"になった[293]。現在のような"歌謡ロック"的評価はまだ浸透していなかったため『Asahi journal』では「僕がやってることは歌謡曲でもロックでもなく"西城秀樹"というジャンルなんだよ」と話し[293]、どんな曲でも絶叫型のヒデキ節にしてしまう自己完結的な高飛車な姿勢も、当時の「タカビー」という若者言葉に乗って大ウケした[293]。また『フライデー』のインタビューでは「俺には演歌が主流だった時代にいちばん新しいことをやったという誇りがある。一貫して"西城秀樹"をやり続けて、いまでも全然変わってない。もし今回のブームがなくてジリ貧になったとしても俺はずっと俺のロックをやり続けていたろうね」と話した[101]。, 宝泉薫は「はっぴいえんどからYMOへという流れを重視したい人も、内田裕也とかキャロル、矢沢永吉や横浜銀蝿こそ"本物"だ等、色々な主張はあるにせよ、現実には、西城から影響を受けたアーティストたちが"Jロック"のメインで大量に活躍中であり、西城こそ日本のロックのパブリックイメージなのではないか」と論じている[202]。西城の曲を聞いて育った次世代のロック・アーティスト達による1997年の『西城秀樹ROCKトリビュート KIDS' WANNA ROCK!』は[48][46][123][196][327]、トリビュート・アルバムのハシリであったが[328]、企画を聞かされた西城は、プロデューサーの大島暁美に「何でオレ?」と聞いたら、「日本のロックの元祖だから」と言われたという[324][327]。参加したサンプラザ中野くんは「ロック感覚あふれるシャウトを日本に持ち込んだ初のシンガーだと思う」と評している[329]。ダイアモンド☆ユカイは「"西城秀樹"というジャンルには根本にロックが流れていると思います。BOØWYが出てきたとき、氷室京介さんのボーカルを、みんな最初は"ヒデキさんみたいだ"と思ったはず。ロックを日本語で表現しようと試行錯誤してきたのはキャロルやサザンオールスターズ、Mr.Childrenといった流れがあるけど、ヒデキさんが原点だったんじゃないでしょうか」などと述べている[202][236]。小室哲哉は「うち(TM NETWORK)のヴォーカルのUTSU(宇都宮隆)と、氷室さんと、あと西城秀樹さんと、3人の声が有線で流れてきた時にたまに一瞬、分かんないときがあった」と話している[262]。怒髪天の増子直純は「日本人にとって同じように血の中にあるのは演歌・歌謡曲でしょう。みんな初めて買ったレコードは西城秀樹やピンク・レディーだったはず」と話している[330]。いとうせいこうは西城のファンであることを隠しているといわれる[18]。徳光和夫は「歌謡界にR&Bを持ってきたのがアッコちゃん(和田アキ子)なら、ロックを持ってきたのは西城秀樹ではないか」と評した[254]。1973年に西城が「ちぎれた愛」で新御三家で初のオリコン週間チャート1位を獲得し、『第15回日本レコード大賞』で初の歌唱賞を受賞したにも関わらず、『NHK紅白歌合戦』出場が翌年まで持ち越されたのは、NHKから西城のロック色の強い部分が警戒されたためといわれた[234]。, "洋楽カバーの第一者"とも評され[35]、アマチュア時代からプロデビュー以降、晩年に至るまで一貫して洋楽カバーをやってきた[46][23]。所属事務所の支社がロサンゼルスに早くからあり[21]、ロスにも頻繁に足を運び、日本でまだ発売されて無いアーティストのテープなどの提供を受けたり、スティーヴィー・ワンダーやバリー・マニロウらと交流し、積極的に洋楽カバーを行った[13][19][20][21][48][123][184][200][227]。カバーを本格的にやろうと決めた切っ掛けは、アメリカでロッド・スチュワートのライブを観た時、ロッドが「キープ・ミー・ハンギン・オン」を自分のものにして歌っているのを観て、「カバーするならあれくらいにならないとダメ」同時に「日本ではどうしてあんな素敵な遊びをしないんだろうな」と思ったことだという[19]。小林亜星は「西城さんはロックミュージシャンとしても最高の知識と腕を持っていた」[206]、「海外の歌ぐらいじゃないと満足ができない、表現がしきれない歌手」と評している。, 1970年から1980年代にかけて日本の音楽界はまだ事務所やレコード会社の力が強い時代であったが、デビュー二年目の1974年には年間二枚も洋楽カバー・アルバムを発売。西城が当時、自身が好きなように構成を組むことが出来たライブでは[13]、頭から10曲洋楽カバーを演ることも珍しくなく[21][331]、1973年~1974年の最初期のコンサート(リサイタル)では、持ち歌がまだ少ないこともあって前半が洋楽カバー、後半が持ち歌メドレーという構成で、洋楽カバーは「Try a Little Tenderness」「Dio, come ti amo」「Funky Stuff」「If You Go Away」「Just Like a Woman」「Roll Over Beethoven」「Spinning Wheel」「I Believe in Music」「Your Mama Don't Dance」「Love」「Jumpin' Jack Flash」など、ベース仕込みの選曲か、女性ファンは勿論、当時の洋楽ファンでも馴染みの薄いロックンロールやソウル、R&B、ファンク、フォーク、シャンソンなどを歌い[23][120][215][331]、後半の持ち歌メドレーでは『愛の十字架』の後、エンディングの「Que je t'aime」を歌い終えると古代ローマの遺跡のセットが崩れ、スモークの中、十字架に磔にされた西城が天に昇っていくという『ジーザス・クライスト・スーパースター』からヒントを得たと思われるロックコンサートの定番演出を行った[126][331][332]。, 1978年にバリー・マニロウの「コパカバーナ」を現地で聴いて「いいな」と思い自身でバリー・マニロウのコラボ(「腕の中へ」)を頼むなど[21][22][180]、全曲自身でカバー曲の選定も行った[21]。また「歌詞が英語のように聴こえるように」といった原曲に合う訳詞にして欲しいといった指示も出した[21]。オリジナル曲の方が儲けが出るためレコード会社はたいてい反対し、それを説き伏せるのが大変だったという[21]。「当時は僕がカバーして、そのアーティストを知るリスナーが多かったんじゃないかな?」と話している[21]。「誰のカバーであっても真似をせずに、自身のスタイルですること」を最も重要視した[21]。「日本語をロックにのっけるっていうのは、当時やったヤツがいなかった。あれで若い子たちが『あ、日本語でロックをやってもいいんだな!』と思ったんじゃないかな。プロでも音楽理論を知ったかぶりするような評論家的なヤツらがいたんだけど、そういうヤツに限って、例えばロック系ならポップスを全然聴いてなかったりしてね。本質を知らないんだよ。僕はポップスもロックも一緒だと思ってる。歌謡ロックや歌謡ポップス、歌謡ヘビーメタルがあったっていいじゃない」[21]、「当時のロックって言ってたのはロックじゃない。全部歌謡ロックだろ」[292] などと話し、歌謡曲やロックの歴史を別々に論じたがる日本の音楽ジャーナリズムに苦言を呈している[21][187]。, 1981年5月、亜細亜テレビの香港音楽祭にスペシャルゲストとして出演[333]。20分のゲスト出演だったが[334]、番組視聴率は90%を超えた[59][335][336]。西城についての問い合わせが殺到し、香港のマスメディアに大きく取り上げられた[336]。当時の香港にもかつての日本の歌謡界と同様、歌う時に体を動かす人があまりおらず、現地の新聞に"ボディアクション""ボディランゲージ"とやたら書かれた[334]。西城からの影響で現地の歌手がそれをみんな真似し始めた[334]。9月12日 - 9月14日、香港で初めてのコンサートをクイーンエリザベス・スタジアムで開催[48][140][333]。現地のプロモーターから「香港の人は評価がストレートだから一回目でブーイングが来たら二度と香港では出来ないよ」と言われ、大変なプレッシャーの中で歌い切り[336]、翌日の新聞の見出しはそれまでの「赤旗星(スーパースター)」から「天皇巨星(超スーパースター)」と表記され、「最もセクシーな歌手」と絶賛された[337]。香港のゴールドディスクを四年連続、プラチナディスクも計6回受賞[338]。アジアでの日本人歌手進出の先がけとなる[3][35][40][74][169][176][201][292][293][339][340][341][342][343]。当時の香港はアイドル歌手の存在はなく、歌唱力など実力のある人でないと人気は出ない土地柄だった[344]。, 1982年9月22日 - 9月24日の3日間[345]、香港にて2回目のコンサートを開催(クイーンエリザベス・スタジアム)[340][345]。当時の香港は教科書問題で揺れ[345][346]、同時期コンサートを予定していたさだまさしと三原順子は中止を余儀なくされたが[335]、西城だけは特別扱い[335]。「僕は広島で生まれ、原爆ドームを見ながら育った。平和を思う気持ちは人一倍です。僕は平和を求める歌手として香港に来ました。歌に国境はない。あってはいけない」という西城のコメントが香港の新聞に大きく掲載された[345]。香港メディアも「歌と政治は切り離すべき」という論調を載せ、平和の使者としての西城を歓迎した[335][345]。, 日本のファンも熱狂的だが、香港の人たちの西城の愛し方は尋常ではなく[335]、コンサートが開催される半年も前から書店には西城の特集を組んだ芸能誌『好時代』がうず高く積まれ、『愛と誠』が上映され、それまでの西城のコンサートの模様を再編集し、ゴールデンタイムに流すハシャギようで、香港の街はヒデキ一色[335]。コンサートで客席に人指し指を向けようものなら、それまで踊り狂っていた子がワーッと泣き出しそれも男の子たちで、西城も「はじめは信じられない世界を見ているようだった」と話した[335]。アジアでは圧倒的に男性客が多かった[18]。香港で西城がダントツ人気を得た理由を香港観光協会は「香港の人間はメンタリティーの部分で、欧米人よりも日本人によく似ています。ジャズよりも当然、日本のポピュラーソングの方がなじみやすいし、リズムとかイントネーションもこっちにマッチしています。香港のショービジネスはアメリカ型というか、下積みから叩き上げていく、いわば本格志向なんです。逆にいうとアイドルの存在が香港にはないんですね。西城はジェネラルだし新鮮さがある。おまけに声量はあるし、歌がうまい。歌プラスショーとでもいうか、仕掛けのあるステージも香港の若い人たちを熱狂させるに充分でした」などと解説した[335]。アニタ・ムイは西城の追っかけからファンクラブ副会長を務めた後、スカウトされ大スターになった[59][344][347][348]。1985年に香港の新聞に「西城秀樹聞梅艶芳暗恋」と書かれ、西城の恋人と騒がれたこともあった[344]。アニタは「日本で西城秀樹さんと共演したことが生涯最高の思い出」と話していた[349][注 21]。ジャッキー・チェンやサミュエル・ホイ、ジョイ・ウォンなど、早くから西城のステージを観に訪れた[336][338][340]。ジャッキーは西城の追っかけのように客席の一番前で三脚まで置いて写真をバチバチ撮り、ステージの上からだとはっきり見えないので、現地のマスコミだと思っていたら、コンサートの終了後に控室に挨拶に来た[334]。ジャッキーはもう香港でも大スターで、西城も『酔拳』とか観ていたから驚き、すぐに食事に誘われ、ジャッキーはどんどん大スターになっていったが、以降もコンサートの時には必ず来てくれた[334]。彼らとは商売抜きで音楽だけで繋がっている関係[18]。彼らが来日した時は、自宅に招待したりし酒を酌み交わした[18][334]。それはアマチュア時代に年上のバンド仲間と純粋に音楽のことだけで付き合っていた頃の記憶と重なった[18]。ジャッキーとは映画での共演は無かったが、1987年8月1日に琵琶湖であった「第5回びわ湖水の祭典ASIA POPS'87」で最後のアンコールでジャッキーが飛び入りで入り「ギャランドゥ」などを一緒に歌った[334]。香港での成功でアジア各国のどこでもコンサートが開けるようになった[338]。『ミス・インターナショナル・クイーン』でタイ王国のテレビに出演したはるな愛は、タイ王国の司会者が「スシ!テンプラ!西城秀樹!」と連呼するので驚いたと話している[350]。西城は「アジアの人たちにはアイドルだどうのこうのという先入観がないため、自分が今ここで出す音しか信用してもらえない。音だけの世界で人気を積み重ねた結果で、自分でも自信になった」と話している[18]。, 1985年9月7日 - 9月11日、香港のほかシンガポールでもコンサートを開催。1986年、シチズンのCMで、海外(アジア各国)CMに初出演[351]。CMソングは「City Dreams From Tokyo」。10月14日 - 10月19日、香港、シンガポールにてコンサート『Caravan From Tokyo - HIDEKI SAIJO CONCERT TOUR '8-06-』を開催。10月14日に香港コロシアムで行われたコンサートの入場料は180香港ドル(約3600円)[351]。香港の当時のOLの平均月収は約6万円だったため、気軽にコンサートを楽しむというレベルではなくファンの見る目も厳しかった[351]。この日のコンサートの模様は、ビージーズでもロッド・スチュワートでもやらなかった前例のないTV完全中継が行われた[352]。毎年の日本武道館公演に香港からファンが数百人単位で鑑賞に訪れるので[335]、負担も大きいと考え、1980年代後半は香港を中心にアジアでの活動を増やした[59][335]。香港でも歌が売れ、ベストテン上位をキープ[333][353]。1986年に香港でも発売したカバー・アルバム『Strangers in the Night』は、香港のアルバムチャートで前代未聞の47週トップを独走した[354]。香港での人気は、フランク・シナトラは別格にしても、ロッド・スチュワートを凌ぐとも称された[351]。1980年代後半は、日本より香港の人気の方が高いぐらいであった[140]。また現地の歌手を活かすため、ステージや番組の演出にも関わり、日本と同様、香港のエンターテインメントの制作にも革命を起こした[334]。, 1987年3月5日 - 3月8日、中国本土で初のコンサートを首都北京・首都体育館及び廣州・中山記念堂で開催[20][342][355][356]。中国人民対外友好協会の二年越しのラブコールに応える形で行われ[356]、廣州のコンサートは児童福祉会館のエレベーター建設のためのチャリティー・コンサートで、そのエレベーターは「西城号」と命名された[59][355]。香港の流行は中国にも伝わった[334]。廣州は香港から120kmしか離れておらず、香港での知名度が高い西城は、廣州でも大スターで、ホテルを一歩出るとあっという間に人垣ができた[20][356]。当時の中国の労働者の平均月収は約120元(約5000円)で、チケットは40元だったが飛ぶように売れた[356]。コンサートは5000人収容の中山記念堂で2回行われたが、収容しきれず、リハーサルを公開すると3000人集まった[356]。廣州に初めてレーザー光線を運び込み[356]、待ち望んだヒデキの肉声に、感情をあまり表面に出さないと言われた人たちが、手拍子を打ち、立ち上がり、踊り出した[356]。香港でも大ヒットした「年青人(ヤングマン)」では、会場中の人が「Y.M.C.A.」の大合唱。ヒデキが「再見!」とステージから去ると「安歌(アンコール)!」の声が響き渡った[356]。西城は「8年前、初めて香港でコンサートをやって以来、ボクはずっとアジアを見つめていた。フィリピン、シンガポールと段階を経て、やっと中国にたどりついた。これはボクの8年間の夢だったんです」と話した[356]。3月10日 - 5月5日、香港で初の主演映画『天使行動(Angel)』撮影(1989年、日本でも上映)[340]。撮影の3か月間、ジャッキー・チェン、レスリー・チャン、ジョイ・ウォンなどと友好を深める。, 1988年9月16日、ソウルオリンピック前夜祭に趙容弼(チョー・ヨンピル・韓国)、陳百強(ダニー・チャン・香港)、胡寅寅(フーインイン・中国)と共に出演。「傷だらけのローラ」を歌う[20]。日本人として初めて韓国の公式の場において、日本語の歌が電波にのった瞬間であった[20][176][340][357][358][注 22]。この模様は衛星中継で世界137か国に放映された[59][180]。1989年2月、香港、バンコク、3月にブラジル・サンパウロ(イヴィラポエラ体育館)でコンサートを開催。"K-POPブームの仕掛人"といわれるSMエンターテインメント創業者・李秀満(イ・スマン)も西城の影響を受けたといわれる[176]。, 1990年、広島・アジア音楽祭『Asian Harmony』を初プロデュースし、出演する。チョー・ヨンピルなど各国からトップ・アーティストを招聘した。1993年にも同種のアジア音楽祭をプロデュースし、出演する。1991年、バングラデシュ救援コンサート『俺らだけのヒットパレード』(以降3年連続)に出演。, 1996年5月28日、『アジア音楽祭イン福岡』(TXN九州主催)出演と蓮舫とともに司会を務める[359]。中国、韓国、香港、タイ、マレーシアのトップシンガーが出演し、テレビ東京系で全国中継(19:00-20:54)。アジアのポップス音楽祭が民放のゴールデンタイムで生中継されるのは初めてといわれた[359]。同年、中国・大連市で行なわれた『国際ファッションショー前夜祭』に日本からのゲストとして出演。大連体育場約4万人の前で歌唱。中国全土及びアジア各国にテレビ放映された。, 1997年10月開校した上海新偶像芸術学校(シャンハイ・ニューアイドル・アート・スクール)名誉教授[360]。, 1998年、「日中友好条約締結20周年」のイベントとして、中国世界文化遺産の万里の長城において外国人歌手初の野外コンサートを開催する[20][74][248]。アジア・ツアーの一環として広州市・珠海市でもコンサートを開催。中国唱片廣州公司(CHINA RECORD)より「moment」北京語ヴァージョンを含むベストアルバム『瞬間』発売。中国でも西城の知名度は高いといわれる[339]。, 1999年9月、日本からペルー共和国への移民100周年記念年としてペルーリマで開催されたNHK『NHKのど自慢』に八代亜紀と共にゲスト出演[361]。, 2007年3月22日、香港のレコード協会にあたるIFPI香港の設立40周年記念のイベント『IFPI Top Sales Music Award』に、約35年間の広東ポップに大きな影響を与えた海外アーティストとして表彰された[340][362][363]。9月24日には、「日中国交正常化35周年」と「中韓国交開始30年」の節目として中国・南通市スポーツ・スタジアムで開催された『第9回アジア国際芸術祭』に松田聖子と共に招待され、「傷だらけのローラ」と「YOUNG MAN (Y.M.C.A.

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